酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

元横綱千代の富士の九重親方が死去

大相撲の元横綱千代の富士の九重親方が死去したことが31日、分かった。61歳だった。


同親方は2015年名古屋場所を全休し、膵臓(すいぞう)がんの手術を受けた。その後は職務に復帰していたが、最近はがんの転移が見つかったとされ、闘病を続けていた。



● 千代の富士貢
人物
誕生〜入門前
1955年に北海道松前郡福島町で漁師を営む家に生まれた。子供の頃から漁業を手伝って自然に足腰が鍛えられ、中学生では運動神経が抜群だった。特に陸上競技では走り高跳び・三段跳びの地方大会で優勝し、「オリンピック選手もいける」と言われるほどだったが、相撲は大嫌いだった。1年生のときに盲腸炎の手術を受けたが、秋元少年の腹の筋肉が厚いために手こずって予定を大幅に上回る長時間の手術になってしまい、終了直前に麻酔が切れてしまった。それでも必死に耐え続ける体格の良い秋元少年を見た病院長が見出し、千代の山の入門の世話をしたことがある若狭龍太郎に連絡した。その連絡を受けた九重(千代の山)から直々に勧誘されたが、自身はあまり気が乗らず、両親も入門に大反対したため一旦は断わっていた。


それでも諦めない九重は秋元少年に対して「とりあえず東京に行こう。入門するなら飛行機[1]に乗っけてあげるよ」「中学の間だけでも(相撲を)やってみて、後のことを考えたらどうだ?」などと持ちかけると、結局、その飛行機にどうしても乗りたいがために、家族の反対を押し切って九重部屋に入門を決めた。


初土俵〜十両昇進
本名のまま1970年9月場所初土俵を踏み、翌11月場所序ノ口につき「大秋元」と改名、1971年1月場所「千代の冨士」(1975年1月場所より「千代の富士」[2])と名付けられた。四股名の由来は、九重の四股名である「千代の山」と同じ部屋の先輩横綱・北の富士から取られた。上京して相撲を始めたものの陸上への未練も捨てがたく、転入した福井中学校では台東区立中学連合の陸上競技大会の砲丸投げで2位に入賞する活躍を見せた。相変わらず相撲に馴染めないまま日時だけが過ぎて行き、中学校を卒業後は帰郷する予定で、1971年3月場所の終了後は荷物を実家へ送り返してしまった。土俵での成績は概ね良好のため、逸材を手放すことを恐れた九重は秋元少年を故郷の後援会会員に世話を頼んで明治大学付属中野高校定時制へ進学させた。そこで学業と相撲の両立を図ったが失敗し、6ヶ月で中途退学して相撲に専念した。


小兵(幕内定着の頃まで体重は100kg以下)ながら気性の激しさを表す取り口で順調に出世して、1974年11月場所19歳5ヶ月で十両昇進、史上初の5文字四股名の関取となった。異名の「ウルフ」については、ちゃんこ番として魚を捌いているところを見た九重が「狼みたいだな」と言ったことから付けられた。当初は狼と呼ばれていたものがいつしか変化したそうで、これを聞いた春日野理事長は「動物の名前で呼ばれる力士は強くなる。ワシは『マムシ』だった。狼は若乃花の昔のあだ名だ」と言ったという。


新入幕〜肩脱臼との戦い
1975年9月場所で昭和30年代生まれの力士としては第一号の新入幕を果たし二日目には幕内初白星を元大関大受から挙げる[3]が、相撲の粗さ[4]が元で5勝10敗と負け越し。その後幕下まで陥落し、昭和30年代生まれの力士としての幕内勝ち越し第一号も当時「北の湖二世」と呼ばれ将来を嘱望された小沼に先を越された。人並み以上の奮起で帰り十両を果たすが、以前から課題だった先天的に両肩の関節の噛み合わせが浅いという骨の形状から来る肩(左肩)の脱臼が顕在化する[5]。取り口も力任せの強引な投げ技を得意としていたために左肩へますます負担がかかり、度重なる脱臼に悩まされた。このため、2年間を十両で過ごすことになるが、元NHKアナウンサーの向坂松彦はこの頃から「(千代の冨士は)ケガ(脱臼)さえなければ幕内上位にいる人だと思う。ウルフと言われる鋭い目はいつの日か土俵の天下を取るものと見ている」と将来性を見抜いていた[6]。


1977年10月29日に九重が死去したことで、部屋は北の富士が継承した。


1977年頃からは頭をつける体格に合った相撲が見られるようになり、その成果もあって脱臼も幾分か治まり、1978年1月場所には再入幕を果たした。同年5月場所13日目の対貴ノ花戦は、取組前の「両者とも足腰が良いからもつれるだろう」という実況・解説者の予想を覆して、頭を付けて懐に入ってから強烈な引き付けで貴ノ花の上体を起こし、貴ノ花が左からおっつけるところを一気に寄り切るという会心の相撲で勝利し、銀星と勝ち越しを同時に手にする大きな白星となった。この場所、9勝6敗の成績を挙げて初の敢闘賞を受賞。この活躍から同年7月場所では新小結の座につき、貴ノ花・旭國の2大関を破ったが、5勝10敗と負け越し。幕内に定着したと思われた1979年3月場所の播竜山戦で右肩を脱臼して途中休場し、入院して脱臼との戦いをまたも強いられることとなる。これは全治1年、手術すれば2年という重大な怪我であり、「もし2カ月で治したいなら筋力トレーニングを行い肩の周辺を筋肉で固めなさい。」と医師に勧められる。この肩を筋肉で固めるという対策に活路を見出し、こうして毎日500回の腕立て伏せ・ウェイトトレーニングに励んで脱臼を克服した[7]。
(wikiより)


詳しい事は、『千代の富士貢ウィキペディア』を御覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E8%B2%A2


 千代の富士貢



早過ぎる・・・ 合掌