酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

387 大田南畝墓(文京区白山4-34-7・本念寺)

● 大田南畝の墓
南畝の生まれは牛込御徒町で、終焉の地は神田駿河台である。


生年寛延2年~没年文政6年(1749 ~ 1823)。


17歳で幕府に出仕以後、能吏として活躍。


一方19歳で「寝惚(ねぼけ)先生文集」を著し、文名を高め、以来多くの作品に見られる軽妙、洒脱筆法によって町人文学の中心的存在となった。


さらに狂歌の流行をみるに及び、彼の狂歌号「蜀山人 = しょくさんじん (四方赤良 = よもあから)」の名声が高まった。


本寺に眠る南畝の墓碑は「南畝大田先生之墓」とあるのみである。


彼は一時、小日向金剛寺坂付近に住み、文京区にゆかりの深い文化人であるだけでなく、狂歌界にあって指導的役割を果たした文人として価値ある史跡である。


「生き過ぎて 七十五年くいつぶし 
              限り知らぬ天地の恩」(辞世)
日蓮宗  信弘山本念寺
(案内板より)


● 大田南畝
大田 南畝(おおた なんぽ、寛延2年3月3日1749年4月19日) - 文政6年4月6日1823年5月16日))は、天明期を代表する文人・狂歌師であり、御家人


勘定所勤務として支配勘定にまで上り詰めた幕府官僚であった一方で、文筆方面でも高い名声を持った。膨大な量の随筆を残す傍ら[1]狂歌洒落本漢詩文狂詩、などをよくした。特に狂歌で知られ、唐衣橘洲(からころもきっしゅう)・朱楽菅江(あけらかんこう)と共に狂歌三大家と言われる。南畝を中心にした狂歌師グループは、山手連(四方側)と称された。


名は覃(ふかし)。字は子耕、南畝は号である[2]。通称、直次郎、のちに七左衛門と改める。別号、蜀山人、玉川漁翁、石楠齋、杏花園、遠櫻主人、[3]巴人亭、風鈴山人、四方山人など。山手馬鹿人(やまのてのばかひと)も南畝の別名とする説がある。狂名、四方赤良。また狂詩には寝惚(ねぼけ)先生と称した。法名は杏花園心逸日休。


生涯
寛延2年(1749年)、江戸牛込中御徒町(現在の東京都新宿区中町)で、御徒の太田正智(吉左衛門)の嫡男として生まれた。下級武士の貧しい家だったが、幼少より学問や文筆に秀でたため[4]、15歳で江戸六歌仙の1人でもあった内山賀邸(後の内山椿軒)に入門し、札差から借金をしつつ国学漢学のほか、漢詩、狂詩などを学んだ。狂歌三大家の1人、朱楽菅江とはここで同門になっている。17歳に父に倣い御徒見習いとして幕臣となるが学問を続け、18歳の頃には漢学者松崎観海に師事した。


19歳の頃、それまでに書き溜めた狂歌が同門の平秩東作に見出され、明和4年(1767年)狂詩集『寝惚先生文集』として刊行。これが評判となった[5]


この後数点の黄表紙を発表するも当たり作はなかったというが、内山賀邸私塾の唐衣橘洲の歌会に参加した明和6年(1769年)頃より自身を「四方赤良[6]」と号し、自身もそれまでは捨て歌であった狂歌を主とした狂歌会を開催し「四方連」と称し活動しはじめた。それまで主に上方が中心であった狂歌が江戸で大流行となる『天明狂歌[7]のきっかけを作り、自身も名声を得ることになった。


当時は田沼時代と言われ、潤沢な資金を背景に商人文化が花開いていた時代であり、南畝は時流に乗ったとも言えるが、南畝の作品は自らが学んだ国学や漢学の知識を背景にした作風[8]であり、これが当時の知識人たちに受け、また交流を深めるきっかけにもなっていった。安永5年(1776年)には、落合村(現・新宿)周辺で観月会を催し[9]、さらに安永8年(1779年)、高田馬場の茶屋「信濃屋」で70名余りを集め、5夜連続の大規模な観月会も催している[10]。翌、安永9年には、この年に黄表紙などの出版業を本格化した蔦屋重三郎を版元として『嘘言八百万八伝』を出版、山東京伝などは、この頃に南畝が出会って見出された才能とも言われている。


天明3年(1783年)、朱楽菅江とともに『万載狂歌集』を編む。この頃から田沼政権下の勘定組頭土山宗次郎に経済的な援助を得るようになり、吉原にも通い出すようになった[11]。天明6年(1786年)ころには、吉原の松葉屋の遊女・三保崎を身請けしとし自宅の離れに住まわせるなどしていた。


商人文化が隆盛を極める一方、農村は飢饉などにもよって疲弊していた。これを改めるべく天明7年(1787年)寛政の改革が始まると、田沼寄りの幕臣たちは「賄賂政治」の下手人としてことごとく粛清されていき、南畝の経済的支柱であった土山宗次郎も横領の罪で斬首されてしまう。さらに「処士横断の禁(処士は学があるのに官に仕えず民間にいる者。幕府批判を防ぐための策)」が発せられて風紀に関する取り締まりが厳しくなり、版元の重三郎や同僚の京伝も処罰を受けた。幸い南畝には咎めがなかったものの、周囲が断罪されていくなかで風評も絶えなかった。政治批判の狂歌「世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶといひて夜もねられず[12][13]」の作者と目されたことや[14]田沼意次の腹心だった土山宗次郎と親しかったことで目を付けられ[15]たという話は有名になっている。これを機に、南畝は狂歌の筆を置いてしまい、幕臣としての職務に励みながら、随筆などを執筆するようになった。天明7年(1787年)には横井也有の俳文集『鶉衣』を編纂、出版する一方、しかし翌年(1788年)には重三郎の元で喜多川歌麿『画本虫撰』として狂歌集を出している[16]


寛政4年(1792年)、46歳の南畝は「学問吟味登科済」が創設されたのを機にこれを受験し、当時小姓組番士だった遠山景晋とともに甲科及第首席合格となる。世間では狂歌の有名人であった南畝は出世できないと揶揄していた[17]が、及第の2年後の寛政8年(1796年)には、支配勘定に任用された。


享和元年(1801年)、大坂銅座に赴任。この頃から中国で銅山を「蜀山」といったのに因み、「蜀山人」の号で再び狂歌を細々と再開する。大坂滞在中、物産学者・木村蒹葭堂や国学者・上田秋成らと交流していた。


文化4年(1807年)8月、隅田川に架かる永代橋が崩落するという事故を偶然に目の当たりし[18]、自ら取材して証言集『夢の憂橋』を出版。


文化9年(1812年)、息子の定吉が支配勘定見習として召しだされる[19]も、心気を患って失職。自身の隠居を諦め働き続けた。


文政6年(1823年)、登城の道での転倒が元で死去。75歳。辞世の歌は「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」[20]と伝わる。墓は小石川の本念寺(文京区白山)にある。


詳しい事は『大田南畝ウィキペディア』を御覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%94%B0%E5%8D%97%E7%95%9D
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/287.html
274 八百善跡(台東区東浅草1-8-12付近)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/292.html
279 山東京伝机塚の碑(浅草神社)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/376.html
362 佐原鞠塢墓(墨田区東向島3-23-17・蓮華寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/377.html
363 向島百花園(墨田区東向島3-18-3)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/2208.html
2018 太田蜀山人碑(茨城県水戸市見川2-103-1・妙雲寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/2950.html
2664 采女(うねめ)塚(台東区清川1-13-13・出山寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3010.html
2723 雀の供養塚(北区田端2丁目7-3・東覚寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/7124.html

6136 素盞雄神社の狛犬(荒川区南千住6-60-1・素盞雄神社)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/7377.html
6429 蜀山人終焉の地碑(神田駿河台4-6・御茶ノ水ソラシティ北側)

http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/7519.html

6541 便々館湖鯉鮒墓(新宿区袋町15・光照寺)


https://drunkenjohnny.muragon.com/entry/7863.html
6830 大田南岳墓(文京区白山4-34-7・本念寺)


 

 大田南畝


画像中央が、大田南畝墓 左側は、お父上の墓(赤い花)です。 


母・利世の墓 


妾、賤の墓