酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

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3413 島原大門(京都市下京区花屋町大門西入)

島原は、江戸時代以来、公許の花街(かがい 歌舞音曲を伴う遊宴の町)として発展してきた。


寛永十八年(1641)、官命によって、島原の前身である六条三筋町から現在の朱雀野(しゅしゃかの)の地に移された。


その移転騒動が、九州で起きた島原の乱を思わせたところから、一般に「島原」と呼ばれてきたが、正式地名は「西新屋敷(にししんやしき)」という。


この島原は、単に遊宴を事とするにとどまらず和歌、俳諧等の文芸も盛んで、ことに江戸中期には島原俳壇が形成されるほどの活況を呈した。


しかし、明治以降の島原は次第にさびれてゆき、現在では揚屋(今の料亭にあたる店)の「角屋」、置屋(太夫や芸妓を派遣する店)の「輪違屋(わちがいや)」、それに島原入口の「大門」、これら三箇所がわずかに往時の名残をとどめるものとなっている。


嶋原のでぐちのやなぎをみて
なつかしきやなぎのまゆの春風に
なびくほかげやさとの夕ぐれ 蓮月尼
太田垣蓮月(歌人 1791~1875)
(案内板より)


● 島原
島原(しまばら)は京都市下京区に位置する花街の名称。「嶋原」とも書く。正式名は西新屋敷といい、6つの町(上之町、中之町、中堂寺町、太夫町、下之町、揚屋町)で構成されている。島原は1976年に京都花街組合連合会を脱会し、現在は輪違屋のみが茶屋営業を行っている。


沿革
室町時代足利義満が現在の東洞院通七条下ルに許可した傾城町が日本の公娼地の始まりといわれる。桃山時代(1589年)には豊臣秀吉の許可を得て、原三郎左衛門らが二条万里小路(までのこうじ)に「二条柳町」を開設した[1]江戸時代になると六条付近に移されて「六条三筋町」と呼ばれるようになり、吉野太夫などの名妓が輩出した。ところが、1641年にはさらに朱雀野付近への移転が命ぜられ、以後「島原」と呼ばれた。「島原」の名称は、この移転騒動が島原の乱時の乱れた様子に似ていたためについたという説や、周りが田原であったため、島にたとえて呼ばれたという説など、諸説がある[2]


新しい土地の周りは壁や堀に囲まれ、出入り口として東の大門ができた[3]。島原は元禄期に最も栄えたが、立地条件が悪かったこと、また格式の高さが原因となって祇園町、祇園新地上七軒、二条などの遊里に人が流れ、その後は幾度かの盛衰を繰り返したものの、次第に衰えていった。廓の女性達は(手形が必要ではあるが)自由に廓の外へ出ることができ、一般人も(男女問わず)自由に出入りができた。清河八郎頼山陽のように、実母を「親孝行」として揚屋で遊ばせた例もあり、外部から「閉ざされた」遊所ではなかった。幕末には西郷隆盛久坂玄瑞新撰組らが出入りしていた。1873年には、のちに歌舞練場となる島原女紅場が置かれた[4]


嘉永4年(1851)の大火で揚屋町以外の島原のほとんどが焼失し、祇園新地で仮営業をしていたが、大半が島原に戻ることなく街は寂れていった[5]。明治以後は公家武家の常連客がいなくなり、さらに窮状に置かれるものの「太夫道中」などの行事で支えていた。昭和初期までには居稼ぎ(店に住みこみ、登楼してくる客の相手をする)の娼妓本位の花街になっており[6]、街に古色は残るものの非常に寂れた状態となった[5]。昭和後期にお茶屋、太夫、芸妓の人数が減り、ついにはお茶屋組合が解散して普通の住宅地と化した。残存していた多くの建物や門も、取り壊しなどで姿を消し、現在は「大門」、「輪違屋」、「角屋」がその面影をとどめているだけである。現在もお茶屋として営業を続けているのは輪違屋のみ。すでに揚屋としての営業は行っていないが、角屋は建築物としては今も日本に唯一残る揚屋造の遺構である[2]


島原の文化と太夫
江戸中期には炭太祇(たんたいぎ)が島原で不夜庵を主宰し、親交のあった与謝蕪村らとともに俳諧活動を行った[7]。また、その他にも島原の太夫や、文人らによる和歌などの文芸活動が盛んであったことを示す資料が多く残っている[8]


「太夫」とはもともと能楽歌舞伎の舞台で秀でた者に与えられた称号であり、最初は京都の女歌舞伎で活躍した女性が「太夫」(舞太夫、能太夫)などと呼ばれたものが、1629年に女歌舞伎が禁止されて以降、優れた技能、教養を持つ最高位の遊女の名として定着したものである[1]。また四条河原で能や舞に明け暮れた女性を「太夫」と呼んだ、とする説もある[9]。太夫は通称「こったい」とも呼ばれ[10]、置屋に所属して揚屋に派遣される(この形態が祇園等、他の花街に影響を与えた)。かつては正五位の地位をも与えられた最高位の遊女であった。太夫はもと御所の公家、皇族が相手であったため、教養に長けた芸妓でなければならない。例えば、舞踊なら名取師範になれるくらいである。


能太夫、舞太夫をルーツに持つとされる島原の太夫にとって「舞踊」(ここでは「歌舞伎舞踊」または「上方舞」をさす)は必須である。島原の舞踊の流派は、江戸時代後期まで篠塚流、その後明治の初めまで井上流であった(三世井上八千代が当流派を「祇園の御留流」とするまで)が、後に花柳流に変わった。現在は特定の流派はない。茶道もおもてなしの技術として必須とされるが、現在特定の流派はない(かつては藪内流が稽古されていた)。その他和楽器三味線胡弓囃子一絃琴琵琶 など)、(地唄長唄小唄常盤津 など)、 書道香道華道詩歌俳句 など)、古典的遊び(貝合わせ囲碁盤双六投扇興など)に通じていることも必要とされる。話術も比較的重視されている。


島原からは、八千代太夫吉野太夫夕霧太夫大橋太夫桜木太夫などの名妓が輩出した。かつての島原では毎年10月に吉野太夫・大橋太夫・八千代太夫の追善供養を行った。また、戦後在籍していた太夫に、夕霧太夫(女優・中村芳子)、高砂太夫、九重太夫、春日太夫、花雲太夫花琴太夫などがいる。


2015年現在、太夫は花扇太夫司太夫、如月太夫、薄雲太夫、若雲太夫、葵太夫、桜木太夫がおり、また元高砂太夫(櫛田一栄)のところには菊川太夫が在籍していて、講演会等にて舞や琴を披露している。現在はいないが太夫道中や行事・イベント等に参加する「振袖太夫」(若い女性つとめる太夫の見習い、振袖の着物・打掛を着る)という存在もある。 島原の太夫は、現代も「輪違屋」等のお座敷のつとめを中心に、主に京都の数々の行事やイベントに参加している。祇園舞妓芸妓と同様の白塗りの厚化粧で、口紅は下唇のみに塗り、必ずお歯黒を付ける。引眉しないので半元服の習慣が現代に残るものと見てよい。また公家文化の影響とも考えられる。原則としてを被らず、自毛で「男元禄(立兵庫)」、「長船」、「勝山」(東京でいうところの「吹輪」とほぼ同形)等の各種の日本髪を結う(髪型の種類は全48種類、うち現在でも結い方がわかっているのは26種類)。帯は前で5角形に結ぶが、これは「心」の字を表すとされる。


詳しい事は『島原ウィキペディア』を御覧下さい。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%8E%9F_(%E4%BA%AC%E9%83%BD)
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/307.html
294 角屋(京都市下京区西新屋敷揚屋町32 )


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3666.html
3404 輪違屋(京都府京都市下京区西新屋敷中之町114)










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