酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

3368 薩摩義士碑(京都市伏見区鷹匠町4・大黒寺)

大正8年に島津忠重が建てたもの。


<宝暦治水工事の経過>
・徳川幕府は毎年氾濫による被害が多発していた木曽三川の分流工事を薩摩藩に命じる。背景には琉球貿易によって財力を得ていた薩摩藩を恐れていたからともいわれている。


・工事費用は薩摩藩が全額負担、大工などの専門職人の雇用は禁止されていた。


・薩摩藩は徳川幕府への反発を極め、一部には徳川家と一戦交えようという過激な意見まで噴出したといわれる。しかし、平田が「民に尽くすもまた武士の本分」と説破して工事を引き受けることとなり、平田は総奉行となる。


・40万両にも上る工事費用を捻出するため大坂豪商から借金を重ね、幕府へもたびたび専門職人の雇用許可を要請するも許可は下りず、工事のやり直しを命じられることがしばしばあったという。


・工事に派遣された多くの薩摩藩士の中に過労や伝染病による死亡が相次ぎ、また幕府に抗議して切腹する薩摩藩士達も続出した。


・この件に関して、平田は幕府との摩擦を回避するため、切腹した藩士たちを事故死として処理している。最終的に病死33名、自殺者52名という多大な損失を薩摩藩は被ることになったが、工事は着工より1年3ヶ月ほどでようやく完成。


・平田は宝暦5年5月24日、国許へ工事の完成終了を書面により報告し、翌25日、切腹した。享年50歳。


・遺体は山城国伏見の大黒寺に葬られ、遺髪は鹿児島城下の妙国寺に埋められた。


・辞世の句は「住みなれし 里も今更 名残りにて 立ちぞわづらふ 美濃の大牧」。



● 薩摩義士碑 

碑文は勝海舟、題字は三条実美


宝暦4年(1754)、薩摩藩は幕命をうけ木曽・長良・揖斐三川の治水工事を開始したが、予想外の難工事に工費は当初の見積りを大幅に越え、藩士の自刃する者50名、病死者32名を出し、宝暦5年の竣工後,総奉行平田靱負(1703~55)は責任をとり切腹した。


遺骸は薩摩藩との縁が深い大黒寺に葬られ、墓碑が現存する。


この碑は平田靱負を義士として顕彰する碑である。


なお建立者・増田伊三郎は伏見の土木請負業者で「任侠の徒」として知られる。










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