酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

3355 仲恭天皇 九條陵(京都市伏見区深草本寺山町)

仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう、建保6年10月10日1218年10月30日) - 天福2年5月20日1234年6月18日))は鎌倉時代の第85代天皇(在位:承久3年4月20日1221年5月13日) - 承久3年7月9日1221年7月29日))。懐成(かねなり)。


順徳天皇の第四皇子。母は、九條良経の娘、中宮立子(東一条院)。


略歴

中宮所生の嫡出の皇子として誕生し、生後1か月の11月26日に立太子。父の順徳天皇が祖父の後鳥羽上皇と共に北条氏追討の挙兵(いわゆる承久の乱)に参加するため、承久3年(1221年)4月20日に譲位され4歳で践祚。同年、祖父の後鳥羽上皇が承久の乱を起こしたが、北条泰時率いる幕府軍に敗北。後鳥羽上皇・順徳上皇はそれぞれ隠岐佐渡に、土御門上皇も自ら望んで土佐に配流された。7月9日に幕府の手によって仲恭天皇は皇位を廃され、高倉天皇の第二皇子である守貞親王(後高倉院)の皇子・茂仁王(後堀河天皇)が即位した。仲恭天皇は幼児で将軍九條頼経の従兄弟であることからその廃位は予想外であったらしく、後鳥羽上皇の挙兵を非難していた慈円でさえ、幕府に仲恭の復位を願う願文を納めている[1]。まもなく母親の実家である摂政九條道家(天皇の叔父、頼経の父)の邸宅に引き渡され、天福2年(1234年)17歳にて崩御。歴代の天皇の中で、在位期間が最も短い天皇である。


諡号・追号・異名

即位後わずか78日で廃され、即位式も大嘗祭も行われなかったため諡号・追号がされず、九条廃帝(くじょうはいてい)[2]承久の廃帝(じょうきゅうのはいてい)[3]半帝後廃帝と呼ばれていた。 明治3年(1870年)5月、明治政府(太政官)は、大友皇子・淡路廃帝・九条廃帝の三天皇に追諡をおこなうことにして、神祇官および大学に追諡の撰定を命じた。九条廃帝は4歳で登極、在位78日で廃位、以後17歳で亡くなるまで生家の九条邸で隠棲されていたのであるから、諡号撰定の根拠にすべき事績は全くなく、神祇官でも苦心の結果、天皇が第三子であったことから「仲」の字を、また諡は本来敬を表すものであるということから「恭」の字をえらび、両者で「仲恭」の諡号を撰定するに至った。政府はこれに対して弾正台などの意見も聞き、7月20日に「仲恭」と決定し、同年7月23日に神祇官で祭典執行、祝詞をして奉諡を行った。翌日、太政官日誌(明治3年第28号)で、弘文天皇(大友皇子)、淳仁天皇(淡路廃帝)とともに仲恭天皇の諡号が布告された。[4]


系譜については、「仲恭天皇ウィキペディア」を御覧下さい。 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%B2%E6%81%AD%E5%A4%A9%E7%9A%87


后妃・皇子女

・右京大夫局 - 性慶の娘

  ・第一皇女:義子内親王(和徳門院)(1234-1289)


在位中の元号

承久1221年4月20日) - (1221年7月9日


陵・霊廟

(みささぎ)は、京都府京都市伏見区深草本寺山町にある九條陵(九条陵、くじょうのみささぎ)に治定されている。公式形式は円丘。

上記とは別に、京都府京都市東山区本町にある宮内庁の東山本町陵墓参考地(ひがしやまほんまちりょうぼさんこうち)では、仲恭天皇が被葬候補者に想定されている[5]


皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。また若宮八幡宮社(京都府京都市東山区)では、左相殿に祀られる(東山本町陵墓参考地の場所にかつて存在した塚本社からの移祀)。


脚注

1. 貞応3年正月慈円願文(『鎌倉遺文』3202号)

2. 『帝王編年記』

3. 『増鏡』

4. 肥後和男 編『歴代天皇紀』(秋田書店、1972年)

5. 外池昇『事典陵墓参考地 もうひとつの天皇陵』(吉川弘文館、2005年)pp. 49-52。

(wikiより)











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