酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

3353 高村久蔵・合同墓(京都市東山区泉涌寺山内町29・戒光寺)

● 高村久蔵
新井忠雄従者


合同墓
● 茨木司
茨木 司(いばらき つかさ、生年不詳 - 慶応3年6月14日(1867年7月15日))は、会津藩出身の新選組隊士。諱は信忠。


慶応元年(1865年)の入隊とされる。


尊皇攘夷思想が強く、慶応3年3月に結成された伊東甲子太郎らの御陵衛士に参加を希望していたが、近藤勇がその才を惜しがったため残留。ただし、伊東より新選組の間者(スパイ)を頼まれていたと言われる。


同年6月に新選組の幕臣取り立てが決まると、反発して会津藩京都守護職邸に抗議を行ったが受け入れられず、佐野七五三之助、中村五郎、富川十郎らと共に、同所で自刃した。


● 清原清
清原 清(きよはら きよし、天保2年(1831年) - 慶応4年閏4月25日(1868年6月15日))は、新選組砲術師範、後に御陵衛士。本名は西村弥左衛門。


熊本藩出身。慶応元年(1865年)5月、土方歳三の江戸での隊士募集に応じて上洛。伊東甲子太郎が御陵衛士として分離すると同行しなかったが、幕臣取立て以前に離隊し合流。


その後竹川直枝または、武川直江と改名。油小路事件のときには伊勢に出張していた。帰京して加納鷲雄と江戸へ出張中に鳥羽・伏見の戦いが始まり、薩摩軍に身を投じた後、北関東から会津へと転戦する。白河口の戦いで戦死した。


墓は戒光寺、鎮護神山(白河市の薩摩藩戦死者墓)にある。 白河市内の新政府軍の墓所郡に埋葬されたが、薩摩藩は鎮護神社に墓石を 建てた。


● 佐原太郎(篠崎信八郎)
弘化二年、常陸松川生まれ。信八、佐原太郎、平利秀とも称す。


慶応元年五月、土方歳三の隊士募集に応じ上洛した。


慶応三年三月、伊東甲子太郎が御陵衛士として新撰組から分離した際には動向せず、六月の幕臣取立てで平士として見廻組並御雇の格を受けてから脱走し伊東らと合流し、佐原太郎と名乗る。


同年十一月、油小路事件の際は、伊勢に出張中だった。


十二月には、阿部十郎らと近藤の妾宅に沖田総司を襲ったが留守だった。


その日、近藤を富山らと襲い重症を負わせた


翌年一月、鳥羽伏見の戦いが始まると御陵衛士の残党と綾小路俊実に従って挙兵し、相楽総三らと赤報隊を結成 その後、独走する相楽と別れて帰京し、投獄された後、奥州を転戦した。


慶応四年九月一日、死亡。


● 佐野七五三助
佐野 七五三之助(さの しめのすけ、天保7年(1836年) - 慶応3年6月14日(1867年7月15日))は、新選組平隊士で伊東甲子太郎派の隊士。諱は重之。尾張名古屋藩出身。内閣総理大臣 加藤高明は甥(妹の子)にあたる。


尾張国(現在の愛知県)海部郡須成村の神職、寺西伊予守家班の嫡子として生まれる。前名は寺西蔵之丞。嘉永3年父が55歳で死去した後、尊皇攘夷を志し、名前を佐野七五三之助と改めて江戸へ出奔。尊王攘夷の機会を得ず、文久3年(1863年)頃、横浜の外人居留地警備の役目を担った時、伊東や篠原泰之進らと出会う。元治元年(1864年)10月に新選組に入隊し、四番組に所属。慶応3年3月に伊東ら御陵衛士が新選組を脱退した際は、密命を受けて新選組に残留。6月10日の新選組幕臣取立てに反対して御陵衛士に参加しようとするが、規定によって断られ茨木司・富川十郎・中村五郎らと共に、会津藩邸内にて切腹した(異説では、新選組隊士大石鍬次郎らに惨殺されたとも)。


佐野は、大石が検死にやってきた時に一旦甦り、大石に斬りかかったと言われる(大石に惨殺されたとする説では、佐野は大石に槍で腹を刺し抜かれたが、必死の抜打ちで、大石に手傷を負わせたと言われている)。これは、一篇の古文書に書かれていたことが拡大したものとされている。


佐野の懐中には、死を覚悟の辞世を秘めていた。辞世の句は「二張の弓引かましと 武士(もののふ)のただ一筋に思ひ切るなり」。慶応四年に発刊された辞世集で上記の内容と異なる辞世であったことが書き残されているものも見つかっている。


遺骸は新選組の手によって光緑寺に葬られたが、鈴木三樹三郎らの手によって戒光寺に改葬された。


● 冨川十郎
(天保15年~慶応3年6月14日)


甲斐の国出身。あるいは常陸国とも。慶応元年、土方の江戸での隊士募集に応じ上洛。


在隊中、伊東甲子太郎に同志する。慶応3年3月に伊東らが御陵衛士として離隊するさい、茨木司・佐野七五三之助とともに密命を受けて新撰組に残留した。同年6月10日の幕臣取立ての内定にさいしては会津藩に脱隊を申し入れたが、新撰組に反対され西村兼文を通じて伊東の対策を求め、14日に面会する。伊東は危惧したものの分隊時の約定によって受け入れることが出来ず、彼らは再び京都守護職に出向く。


そこで、近藤以下、隊士達と話し合うが脱隊が不可能であることを知った冨川らは別室に入り切腹したという。


● 富山弥兵衛
富山 弥兵衛(とやま やへえ、天保14年(1843年) - 明治元年閏4月1日(1868年5月22日))は、新選組隊士、御陵衛士。通称は弥兵衛、四郎。諱は豊国。


来歴
1843年、薩摩藩士の子弟として生まれる。1864年、新選組に加盟して七番大砲組に属し、翌1865年には伍長をつとめた。のち、伊東甲子太郎らと共に御陵衛士結成に参加する。油小路事件では現場を脱出し、薩摩藩に匿われた。


のち、伏見街道で阿部十郎ら御陵衛士残党と共に近藤勇を襲撃した。


戊辰戦争では薩摩藩に属した。越後出雲崎にて会津藩の動向探索に従事したが、水戸諸生党に捕らえられ、一時は逃走したものの、失敗して殺害された。享年26。


備考
新選組加盟は、大久保利通が間者として送り込まれて加盟したとされる。加盟を前に薩摩藩出身を理由として密偵の嫌疑をかけられたが、伊東が取りなしたため加盟が許されたとされる。


殺害された富山は全身約50ヶ所を串刺しにされたと伝わる。遺体は戦線にて埋葬されたが、のち新潟県上越市高田に合装墓が造られたという。のち、靖国神社に祭祀された。
(wikiより)


● 中村五郎
中村 五郎(なかむら ごろう、嘉永2年(1849年) - 慶応3年6月14日(1867年7月15日))は、下野国宇都宮出身の新選組隊士。北辰一刀流。諱は政常。


慶応元年(1865年)4月の土方歳三、伊東甲子太郎、斎藤一らによる隊士募集に応じて、17歳で新選組に入隊。同年5月10日、京都へ入る。


慶応3年6月に新選組の幕臣取り立てが決定すると、尊皇攘夷思想の強かった佐野七五三之助・茨木司・富川十郎らと共に脱退を決意して、伊東らが新選組と分離して結成していた御陵衛士への入隊を希望するが拒否されてしまう。行き場を失った中村らは、会津藩京都守護職邸へ新選組脱退を嘆願するも、上手く事は運ばず、同地にて自刃。享年19。


2ヶ月前には、「柵が無かった」のに… orz


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/176.html
172 新撰組隊士墓(京都四条大宮町37番地・光縁寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/259.html
255 御陵衛士屯所跡(東山区高台寺通・月真院)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3601.html

3344 伊東甲子太郎墓(京都市東山区泉涌寺山内町29・戒光寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3602.html

3345 服部武雄墓(京都市東山区泉涌寺山内町29・戒光寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3609.html

3352 毛内監物墓(京都市東山区泉涌寺山内町29・戒光寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3611.html
3354 藤堂平助墓(京都市東山区泉涌寺山内町29・戒光寺)










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