酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

312 新島襄先生 生誕地記念の碑(千代田区神田錦町3・学士会館敷地内)

京都同志社の創立者 新島 襄先生は天保十四年(1843年)上州安中藩主・板倉伊豫守の江戸藩邸に誕生せられた。


先生は幕末における国家多難の際、わが国の前途をうれいキリスト教の信仰と海外事情研究を志して二十一才(1864年)函館より密かに脱国、米国に渡航し新英州キリスト教文化の根本を体得せられた。


母国日本の隆盛をはかるためには、単に法律、政治、経済の改革のみによって達せられるものではなく、人民の一人一人が「知識あり品位あり自ら立ち、自ら治め」うるものであり「良心の全身に充満したる丈夫(ますらを)」となることによって その目的を達しうるものであることを痛感せられた。


留学十年、1874年(明治七年)帰朝、翌七十五年十一月二十九日、京都に同志社を建てキリスト教をもって徳育の基本とした教育のためにその生涯を捧げられた。


この碑は新島 襄先生生誕百年を記念して建てられたが、神田錦町出身の偉大な先覚者をしのび、この解説を掲示するものである。


昭和四十年十一月 同志社創立九十周年を記念して
                  錦町三丁目町会、錦華小学校、小川小学校


● 新島襄
新島 襄(にいじま じょう 英字表記:Joseph Hardy Neesima天保14年1月14日1843年2月12日) - 明治23年(1890年1月23日)は日本宗教家教育者学位理学士同志社英学校(後の同志社大学)を興した。明治六大教育家の1人に数えられている。


生涯
幼少時代
天保14年(1843年)、江戸神田にあった上州安中藩江戸屋敷で、安中藩士・新島民治の子として生まれる。本名を七五三太(しめた)という。この名前は、祖父・弁治が女子が4人続いた後の初の男子誕生に喜び「しめた」と言った事から命名されたという説がある。後に敬幹(けいかん)と改名。


元服後、友人から貰い受けたアメリカの地図書から、アメリカの制度に触れ、憧れを持つようになる。その後、幕府の軍艦操練所で洋学を学ぶ。ある日、アメリカ人宣教師が訳した漢訳聖書に出会い「福音が自由に教えられている国に行くこと」を決意し、備中松山藩の洋式船「快風丸」に乗船していたこともあり、当時は禁止されていた海外渡航を思い立つ[1]


函館潜伏 - 渡米
元治元年(1864年)、アメリカ合衆国への渡航を画策し、「快風丸」に乗って開港地の箱館へと向かう。箱館に潜伏中、当時ロシア領事館付の司祭だったニコライ・カサートキンと会う。ニコライは新島から日本語と日本の書物(古事記)などの手ほどきを受け、また聖書に興味を持つ彼に自分の弟子になるよう勧めたが新島のアメリカ行きの意思は変わらずニコライはそれに折れ、坂本龍馬の従兄弟である沢辺琢磨福士卯之吉と共に新島の密航に協力した。


6月14日7月17日)、箱館港から米船ベルリン号で出国する。上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換え、船中で船長ホレイス・S・テイラーに「Joe(ジョー)」と呼ばれていたことから以後その名を使い始め、後年の帰国後は「譲」のちに「襄」と名乗った[脚注 1]慶応元年(1865年)7月、ボストン着。


ワイルド・ローヴァー号の船主・A.ハーディー夫妻の援助をうけ、フィリップス・アカデミーに入学することができた。


岩倉使節団

慶応2年(1866年)12月、アンドーヴァー神学校付属教会で洗礼を受ける。慶応3年(1867年)にフィリップス・アカデミーを卒業。 明治3年(1870年)にアイビーリーグと同等レベルのリベラルアーツカレッジのトップ3の一つで、リトルアイビーと呼ばれる名門校アマースト大学を卒業(理学士)。これは日本人初の学士の学位取得であった。アマースト大学では、後に札幌農学校教頭となるウィリアム・スミス・クラークから化学の授業を受けていた。クラークにとっては最初の日本人学生であり、この縁でクラークは来日することとなった。当初、密航者として渡米した襄であったが、初代の駐米公使となった森有礼によって正式な留学生として認可された。


明治5年(1872年)、アメリカ訪問中の岩倉使節団と会う。襄の語学力に目をつけた木戸孝允は、4月16日から翌年1月にかけて自分付けの通訳として使節団に参加させた。襄は使節団に参加する形でニューヨークからヨーロッパへ渡り、フランススイスドイツ、ロシアを訪ねた。その後ベルリンに戻って約7カ月間滞在し、使節団の報告書ともいうべき『理事功程』を編集した。これは、明治政府の教育制度にも大きな影響を与えている。また欧米教育制度調査の委嘱を受け、文部理事官・田中不二麿に随行して欧米各国の教育制度を調査した。


宣教師任命 - 帰国

明治7年(1874年)、アンドーヴァー神学校を卒業する。新島はアメリカン・ボードから日本での宣教に従事する意思の有無を問われると、即座にそれを受託した。明治8年(1875年)9月、宣教師志願者の試験に合格し、ボストンで教師としての任職を受けた。新島の宣教師として身分は「日本伝道通信員」(Corresponding member of the Japan)であった[3]。同年10月、アメリカン・ボード海外伝道部の年次大会で日本でキリスト教主義大学の設立を訴え、5,000ドルの寄付の約束を得る。


同年11月、横浜に帰着。最初に故郷の上州安中に向かい、三週間滞在した。滞在中に、藩校・造士館と竜昌寺を会場にキリスト教を講演する。その集会で30人の求道者がでて、日曜ごとに聖書研究会が開かれた。明治11年(1878年)に30人が新島より洗礼を受け、安中教会(現、日本基督教団安中教会)を設立した。



詳しい事は『新島襄ウィキペディア』を御覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%B3%B6%E8%A5%84
(wikiより)

関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/117.html
114 神田ニコライ堂(千代田区駿河台4-1-3)

http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/244.html
240 尺振八の共立学舎跡(墨田区両国四丁目八番周辺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/324.html
311 二條家邸跡(京都市上京区今出川通り烏丸東入)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/326.html
313 新島襄先生終焉之地碑(神奈川県中郡大磯町大磯)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/678.html
637 新島襄旧邸(京都市上京区寺町通荒神口下ル松蔭町)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/2030.html
1856 尺振八墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3033.html
2740 添川廉斎墓(台東区入谷1-28-7・正覚寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3711.html
3449 徳富蘇峰碑(広島県尾道市・千光寺公園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/4180.html
3836 新島襄海外渡航の地碑(函館市大町11)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/4773.html

4343 新島襄墓(京都府左京区鹿ケ谷若王子山町・同志社墓地)


 

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