酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

309 浅利家墓(台東区・谷中霊園)

● 浅利 ( 慶太 ) 家墓


「二十世紀の演劇人たち此処へ眠る」という碑が有ります。


浅利陽子 1931-1954(鶴雄次女)
大戦直後の暗い時代に女優を志す 美しく明るく大柄 土方与志らに師事、が思想芸術上の苦悩から青春のさ中自らの手で生涯を閉す


浅利鶴雄(三田英児)1899-1980(二世 市川左団次の甥)
自由劇場運動に関る 後、築地小劇場を創立、無声映画時代に主演作有り


松竹にて歌舞伎初の海外公演(訪露)を実現、大戦後は劇界を退く


浅利マリエ(影万里江)1933-1981(慶太妻)
劇団四季草創期に「オンディーヌ」日本初演「テッサ」などジロドウ作品に主演、病を得 
主演作初日五日前に儚く美しい生涯を嵐のように閉ず
(碑文より)


● 浅利慶太
浅利 慶太(あさり けいた、1933年3月16日-)は、日本の演出家実業家である。劇団四季創設者の一人で、劇団の運営・管理に当たる四季株式会社の代表取締役社長・会長・芸術総監督をつとめた[1]


東京都出身。永田町小学校(現麹町小学校[2]慶應義塾高等学校慶應義塾大学文学部仏文学専攻中退[3]。特選塾員。慶應義塾評議員


来歴・人物
1953年7月、慶應義塾大学東京大学の学生を中心に劇団四季を結成した[4]。主に、ジャン・アヌイジャン・ジロドゥ等フランス文学作品を上演する。その後旧東京田辺製薬にて宣伝・広告などのアルバイトをしながら[5]日本テレビの「ジャングル・ジム」の吹き替えアテレコに劇団として参加した[6]


また、1958年には、石原慎太郎江藤淳谷川俊太郎寺山修司永六輔黛敏郎福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対した。だが、後に思想的には保守化する[7][8]


1961年、日生劇場製作営業担当取締役に就任。1969年、日本ゼネラルアーツを設立。1966年から1975年まで越路吹雪リサイタル公演を日生劇場において演出した。


かつて実妹と共に優秀な日本共産党員で、選挙戦や山村工作隊時代を戦ってきたが、実妹が左翼演劇人の劇団で裏切りに遭って自殺、それ以後、浅利慶太自身も左翼陣営を離れた[9]。1970年代から海外ミュージカルの翻訳上演を始め、中曽根康弘石原慎太郎などの政治家との関係[10]を背景とした莫大な集金、集客力により、劇団四季を大劇団へと成長させる。興行面においては1983年『キャッツ』初演において日本で初めて無期限ロングラン公演を成功させた[11]。中曽根や石原のブレーンとしても知られていたうえ、先述どおり政界との繋がりをおおいに利用して劇団を躍進させたことから、「政商」と批判されたが[12]後の日本経済新聞の連載など様々な場所で「国益のため」と述べている。[要出典]


このように権力との関わりが密接である[13][14]にも関わらず、一切の国家的顕彰を拒否しており、過去に紫綬褒章文化功労者の内示があったときも、辞退している[15]


1985年12月ミラノ・スカラ座での『蝶々夫人』『トゥーランドット』『エレクトラ』の演出や、長野オリンピック開会式の総合プロデューサーを担当。また、創立当初からのポリシーであるアヌイ、ジロドゥ作品の上演や、太平洋戦争や日中戦争を題材とした「昭和三部作」の上演を行っている。


1993年には大韓民国盧泰愚大統領と会談、盧泰愚は、そのなかで朝日新聞をはじめとする日本の言論機関が慰安婦問題に関連して韓国内の反日感情をいたずらに煽っていることに苦言を呈している(『文藝春秋』平成5年3月号)。


2006年10月、政府の教育再生会議委員に就任。


2014年6月、四季株式会社の取締役社長を退任[4]


2015年3月、新事務所の浅利演出事務所を設立し社長就任。劇団四季とは別に独自の演劇活動を開始[16]。第1弾公演は劇団四季でも公演した『オンディーヌ』で、劇団四季はJR東日本アートセンター自由劇場を提供し協力[16]


家族
3度の結婚歴がある。最初の妻は藤野節子、2度目の妻は影万里江。2人とも劇団四季における浅利の同志的存在だった。影の墓所は、浅利の実家の墓(谷中霊園内)である。2度目の離婚後は長く独身だったが、2003年、野村玲子を3度目の妻に迎え、現在に至る。


大叔父は二代目市川左團次。父は小山内薫らと築地小劇場の設立に参画し、三田英児の名で映画俳優として活躍した浅利鶴雄。鶴雄の母浅利たけの妹登美が左団次の妻で、左団次に子がなかったため慶太に左団次を継がせる話もあり、幼い頃は左団次の家にいたこともある[17]。その他、叔父に旧東京田辺製薬元会長の田辺元三郎がいる[5]


詳しい事は『浅利慶太ウィキペディア』を御覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E5%88%A9%E6%85%B6%E5%A4%AA
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1182.html
1090 土方梅子墓(豊島区駒込5-5-1・染井霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/2698.html
2440 江藤淳墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/5344.html

4853 影万里江墓(台東区谷中1丁目・谷中霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/5489.html
4995 土方与志墓(豊島区駒込5-5-1・染井霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6948.html

5988 浅利鶴雄墓(台東区・谷中霊園)


 

 浅利慶太