305 大久保利通暗殺刑死者(台東区・谷中霊園)
紀尾井坂の変(きおいざかのへん)は、1878年(明治11年)5月14日に、内務卿大久保利通が東京府麹町区麹町紀尾井町清水谷(現在の東京都千代田区紀尾井町清水谷)で不平士族6名によって暗殺された事件。「紀尾井坂事件」「大久保利通暗殺事件」[1]ともいう。
暗殺犯の動向
実行犯は石川県士族島田一郎・長連豪・杉本乙菊・脇田巧一・杉村文一および島根県士族の浅井寿篤の6名から成る(脇田は暗殺にあたり罪が家に及ぶのを恐れて士族を辞めて平民になった)。その中でも特に中心的存在であるのが島田一郎である。島田は加賀藩の足軽として第一次長州征伐、戊辰戦争に参加しており、明治維新後も軍人としての経歴を歩んでいたが、征韓論に共鳴しており、明治六年政変で西郷隆盛が下野したことに憤激して以後、国事に奔走することになる。
杉村寛正(杉村文一の兄)らも征韓論にあたり従軍願いを出している。さらに台湾出兵にあたっては杉村・長らは再び従軍願いを出しており、台湾出兵中止の噂に対する反対の建白書や佐賀の乱の処理を批判する建白書には杉村(寛)・島田・後に斬奸状を起草する陸義猶(陸九皐)が名を連ねている。しかし、これらの建白書は期待した効果を生まず、島田らは実力行使路線を採ることになる。1874年(明治7年)に島田と長は東京で会い、意気投合している。
長は1874年(明治7年)6月に、台湾出兵について西郷、桐野利秋の見解を聞きに杉村(寛)、陸と鹿児島入りしている。長は半年ほど鹿児島に滞在し私学校に留学している。長は1876年(明治9年)にも鹿児島入りして桐野らと旧交を温めている。
長が帰県した10月には神風連の乱、秋月の乱、萩の乱と士族反乱が相次ぎ、島田も金沢で挙兵計画に奔走するが失敗。さらに翌1877年(明治10年)の西南戦争では、島田と長が協力して挙兵計画に奔走したが、周囲の説得に苦慮している間に、4月に政府軍が熊本城に入城したとの情報を得て、勝敗は決したと計画を中止した。
この後、島田らは高官暗殺に方針を変更する。杉本・脇田・杉村らもこの時期に島田の計画に加わっている。脇田は10月、長は11月、杉村は12月、島田、杉本は翌年4月に上京している。唯一の島根県人である浅井は西南戦争当時警視庁の巡査であり警視隊に属して従軍し、1877年(明治10年)8月に東京に凱旋していたが、禁令を犯して1878年(明治11年)2月に免職となり、3月に島田らの暗殺計画を知って計画に加わった。
彼らの暗殺計画は複数のルートを経て、当時の警察のトップである大警視川路利良の耳にも入っていたが川路は「石川県人に何ができるか」と相手にしなかった[2][注釈 1]。
斬奸状
島田らが大久保暗殺時に持参していた斬奸状は4月下旬に島田から依頼されて陸が起草したものである。有司専制の罪として以下の5罪を挙げている。
・法令の朝令暮改が激しく、また官吏の登用に情実・コネが使われている。
・外国との条約改正を遂行せず国威を貶めている。
暗殺当日
5月14日早朝、大久保は福島県令山吉盛典の帰県の挨拶を受けている。話は2時間近くに及び、山吉が辞去しようとしたときに大久保は三十年計画について述べている。これは明治元年から30年までを10年毎に3期に分け、最初の10年を創業の時期として戊辰戦争や士族反乱などの兵事に費やした時期、次の10年を内治整理・殖産興業の時期、最後の10年を後継者による守成の時期として、自らは第2期まで力を注ぎたいと抱負を述べるものであった。
午前8時ごろ、大久保は麹町区三年町裏霞ヶ関の自邸を出発。明治天皇に謁見するため、二頭立ての馬車で赤坂仮皇居へ向かう。午前8時30分頃、紀尾井町清水谷(紀尾井坂付近。現在の参議院清水谷議員宿舎前)において、暗殺犯6名が大久保の乗る馬車を襲撃。日本刀で馬の足を切った後、御者の中村太郎を刺殺。次いで乗車していた大久保を馬車から引きずり降ろした。大久保は島田らに「無礼者」と一喝したが、斬殺された(享年49〈数え年〉、満47歳没)。介錯として首に突き刺された刀は地面にまで突き刺さっていた。『贈右大臣正二位大久保利通葬送略記・乾』によると大久保は全身に16箇所の傷を受けていた。そのうちの半数は頭部に集中していた。事件直後に駆けつけて遺体を見た前島密は、「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る」と表現している。
島田らは刀を捨てて、同日、大久保の罪五事と、他の政府高官(木戸孝允、岩倉具視、大隈重信、伊藤博文、黒田清隆、川路利良)の罪を挙げた斬奸状を手に自首した。
詳しい事は『紀尾井坂の変ウィキペディア』を御覧下さいませ。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%B0%BE%E4%BA%95%E5%9D%82%E3%81%AE%E5%A4%89
(wikiより)
関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1456.html
1350 大久保利通墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1640.html
1511 川路利良墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/2135.html
1951 大隈重信墓(文京区大塚5-40-1・護国寺)
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/2535.html
2315 斉藤正言墓(台東区谷中7-5-24・谷中霊園)
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/2811.html
2542 贈右大臣大久保公哀悼碑(千代田区紀尾井町2・清水谷公園)
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3567.html
3314 大久保利通邸跡(上京区河原町通今出川下る西入る)
https://drunkenjohnny.muragon.com/entry/7915.html
※. 犯人其々については「ウィキペディア」を御覧下さいませ。
● 島田一良(しまだいちろう) ⇧
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E7%94%B0%E4%B8%80%E9%83%8E
● 長蓮豪(ちょうつらひで) ⇧
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E9%80%A3%E8%B1%AA
● 脇田功一(わきたこういち) ⇧
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%87%E7%94%B0%E5%B7%A7%E4%B8%80
● 浅井寿篤(あさいとしあつ) ⇧
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E4%BA%95%E5%AF%BF%E7%AF%A4
● 杉本乙菊(すぎもとおとぎく) ⇧
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E6%9C%AC%E4%B9%99%E8%8F%8A
● 杉村文一(すぎむらぶんいち) ⇧
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E6%9D%91%E6%96%87%E4%B8%80
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