酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

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303 田沼意次墓(豊島区駒込5・染井霊園)

田沼 意次(たぬま おきつぐ)は、江戸時代中期の旗本、のち大名江戸幕府老中


遠江相良藩の初代藩主である。相良藩田沼家初代。


生涯
出生
享保4年(1719年)7月27日、紀州藩士から旗本になった田沼意行の長男として江戸の本郷弓町の屋敷で生まれる。幼名は龍助。父・意行は紀州藩足軽だったが、部屋住み時代の徳川吉宗の側近に登用され、吉宗が第8代将軍となると幕臣となり小身旗本となった。吉宗は将軍就任にあたって紀州系の家臣を多数引きつれて幕臣とし、特に勘定方と将軍および子供たちの側近に配置して幕政を掌握したが、意次は紀州系幕臣の第二世代目に相当し、第9代将軍となる徳川家重の西丸小姓として抜擢され、享保20年(1735年)に父の遺跡600石を継いだ[1]


意次は父・意行が当時としては老齢になってから初めて生まれた息子だった。意行は息子を授かるために七面大明神に帰依し、そして意次が生まれた。そのため意次は七面大明神に感謝し、家紋を七曜星に変更したといわれる。


相良藩主時代
元文2年(1737年)、従五位下主殿頭になり、延享2年(1745年)には家重の将軍就任に伴って本丸に仕える。寛延元年(1748年)に1,400石を加増され、宝暦5年(1755年)には更に3,000石を加増され、その後家重によって宝暦8年(1758年)に起きた美濃国郡上藩百姓一揆郡上一揆)に関する裁判にあたらせるために、御側御用取次から1万石の大名に取り立てられた。


宝暦11年(1761年)、家重が死去した後も、世子の第10代将軍徳川家治の信任は厚く、破竹の勢いで昇進し、明和4年(1767年)にはさらに御側御用人から板倉勝清の後任として側用人へと出世し5,000石の加増を受けた。さらに従四位下に進み2万石の相良城主となって、明和6年(1769年)には侍従にあがり老中格になる。安永元年(1772年)、相良藩5万7,000石の大名に取り立てられ、老中を兼任し、前後10回の加増で僅か600石の旗本から5万7,000石の大名にまで昇進し、側用人から老中になった初めての人物となった。順次加増されたため、この5万7,000石の内訳は遠江国相良だけでなく駿河国、[[下総]国、相模国三河国和泉国河内国の7か国14郡にわたり東海道から畿内に跨る分散知行となった[2]


田沼時代
  詳細は「田沼時代」を参照
この頃より老中首座である松平武元など意次を中心とした幕府閣僚は、数々の幕政改革を手がけ、田沼時代と呼ばれる権勢を握る。悪化する幕府の財政赤字を食い止めるべく、重商主義政策を採る。内容は株仲間の結成、銅座などの専売制の実施、鉱山の開発、蝦夷地の開発計画、俵物などの専売による外国との貿易の拡大、下総国印旛沼の干拓に着手する等の政策を実施した。その結果、幕府の財政は改善に向かい、景気もよくなった。しかし、社会の初期資本主義化によって、町人・役人の生活が金銭中心のものとなり、そのために贈収賄が横行した。


また、都市部で町人の文化が発展する一方、益の薄い農業で困窮した農民が田畑を放棄し、都市部へ流れ込んだために農村の荒廃が生じた。印旛沼運河工事の失敗や明和の大火浅間山の大噴火などの災害の勃発、疲弊した農村部に天明の飢饉と呼ばれる食糧難や疫病が生じた。意次は対策を打ち出すが、失敗し逆に事態を悪化させてしまった。その中にあって財政難に陥っていた諸藩は米価の値上がりを借金返済の機会とし、検地により年貢の取立てを厳しくしていった。


このような世相の中、それらが元による都市部の治安の悪化、一揆・打ちこわしの激化により不満が高まり、江戸商人への権益を図りすぎたことを理由に贈収賄疑惑を流されるなど、次第に田沼政治への批判が集まっていく。


外国との貿易を黒字化させて国内の金保有量を高め、さらには北方においてロシア帝国との貿易も行おうとしていたほか、平賀源内などと親交を持ち、蘭学を手厚く保護し、士農工商の別にとらわれない実力主義に基づく人材登用も試みたが、これらの急激な改革が身分制度や朱子学を重視する保守的な幕府閣僚の反発を買い、天明4年(1784年)に息子で若年寄田沼意知江戸城内で佐野政言に暗殺された[3]ことを契機とし、権勢が衰え始める。


天明6年(1786年)8月25日、将軍家治が死去。死の直前から「家治の勘気を被った」としてその周辺から遠ざけられていた意次は、将軍の死が秘せられていた間(高貴な人の死は一定期間秘せられるのが通例)に失脚するが、この動きには反田沼派や一橋家徳川治済)の策謀があったともされる。8月27日に老中を辞任させられ、雁間詰に降格。閏10月5日には家治時代の加増分の2万石を没収され、さらに大坂にある蔵屋敷の財産の没収と江戸屋敷の明け渡しも命じられた。


その後、意次は蟄居を命じられ、二度目の減封を受ける。相良城は打ち壊し、城内に備蓄されていた金穀は没収と徹底的に処罰された。長男の意知は一昨年に暗殺されており、他の3人の子供は全て養子に出されていたため、孫の龍助が陸奥1万石に減転封のうえで辛うじて大名としての家督を継ぐことを許された。同じく軽輩から側用人として権力をのぼりつめた柳沢吉保間部詮房が、辞任のみで処罰は無く家禄も維持し続けたことに比べると最も苛烈な末路となった[4]


その2年後にあたる天明8年(1788年)6月24日、江戸で死去。享年70。


詳しい事は『田沼意次ウィキペディア』を御覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B2%BC%E6%84%8F%E6%AC%A1
(wikiより)


関連情報
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22 平賀源内墓(台東区橋場2-22-2)


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1037 浩養園(こうようえん)跡(墨田区吾妻橋1-23)


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1744 狩野栄川院典信墓(大田区池上1-1-1・池上本門寺)


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2913 本多忠央墓(江東区亀戸3-10-2・長寿寺)


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3379 大倉喜八郎別邸跡(墨田区堤通1-1-2・共栄倉庫株式会社東京支店)


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4288 柳生俊能墓(奈良県奈良市柳生下町445・芳徳寺)


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5081 松平武元墓(荒川区東日暮里5-41-14・善性寺)


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6468 井伊直幸正室墓(世田谷区豪徳寺2-24-7・豪徳寺)


 

 田沼意次