酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

2718 下谷坂本の富士塚(台東区下谷2-13-14・小野照崎神社)

この塚は模造の富士山で、文政十一年(1828)の築造と考えられている。


『武江年表』同年の項に、『下谷小野照崎の社地へ、石を畳みて富士山を築く』とある。


境内の"富士山建設之誌碑"によると、坂本の住人で東講先達の山本善光が、入谷の住人で東講講元の大坂屋甚助と協議して築造し、富士山浅間神社の祭神を勧請したという。


東講は富士山信仰の集団、いわゆる富士講の一。


富士山信仰は室町末期頃に起り江戸時代中期には非常に盛んになり、江戸をはじめとして富士講があちこちで結成された。


それにともない、模造富士も多数築かれ、江戸とその近郊の富士塚は五十有余を数えるに至った。


しかし、いまに伝わる塚は少ない。


ここの富士塚は高さ約五メートル、直径約十六メートル。


塚は富士の熔岩でおおわれ、東北側一部が欠損しているものの、原形がよく保存されている。


原形保存状態が良好な塚は東京に少ないので、この塚は貴重である。


昭和五十四年五月二十一日、国の重要有形民俗文化財に指定された。
(案内板より)


● 富士講

富士講(ふじこう)、浅間講(せんげんこう)

1. (狭義)江戸時代に成立した民衆信仰のひとつで[1]、特に江戸を中心とした関東で流行した、角行の系譜を汲むものをいう。講社に留まらず、その宗教体系・宗教運動全般を指すことも多い。「富士講」と言うと通常はこちらを指している。

2. (広義)富士山とその神霊への信仰を行うための講社全般。


概要

富士講の活動は、定期的に行われる「オガミ(拝み)」とよばれる行事と富士登山(富士詣)から成っている。オガミにおいて、彼らは勤行教典「オツタエ(お伝え)」を読み、「オガミダンス(拝み箪笥)」とよばれる組み立て式の祭壇を用いて「オタキアゲ(お焚き上げ)」をする。


また信仰の拠りどころとして石や土を盛って富士山の神を祀った富士塚(自然の山を代用することもある)を築く。現在、江古田東京都練馬区小竹町江古田浅間神社)、豊島長崎(同豊島区)、下谷坂本(同台東区小野照崎神社)、木曽呂埼玉県川口市)の4基の富士塚が重要有形民俗文化財に指定されている。


御師(おし)は、角行が説いた信仰の指導者であり、同時に、富士講の講員に富士登山時の宿泊所を提供する役目を荷っている人である。閉山期には御師は江戸などの富士講をまわり、教えを説いた。夏になり富士の開山の時期となると、河口や吉田などにある御師の家に富士講の講員らが続々とやってくるので、宿を提供し、登山道についての情報や登山に必要な食料や装備も提供するなど、様々な世話をした。


なお、狭義の「富士講」は江戸時代においては、吉田の御師による活動のみを指しており、吉田以外の川口・須走・須山などの御師の活動や導者との師檀関係は「富士講」には含まれず、かつそちらの方が一般的な形態であったとする指摘もある[2]


上記とは別に、修験道に由来する富士信仰の講集団も富士講(浅間講)と名乗っている。中部・近畿地方に分布しているが、実態は上記のものと大きく異なり、初夏に水辺で行われる水行(富士垢離)を特徴とする。また、富士山への登山も行うが大峰山への登山を隔年で交互で行うなど、関東のものには見られない行動をとる。


歴史

狭義の富士講は、戦国時代から江戸時代初期[3]に富士山麓の人穴静岡県富士宮市)で修行した角行藤仏[4]という行者によって創唱された富士信仰の一派に由来する。のちに旺心(赤葉庄佐衛門)らが初の講社を組み、以下の3つを掟とした[5]

  1. 良き事をすれば良し、悪しき事をすれば悪し。
  2. 稼げは福貴にして、病なく命長し。
  3. 怠ければ貧になり病あり、命短し。

享保期以降、村上光清食行身禄によって発展した。村上は主に大名や上層階級から支持され、家業を真面目に勤めることが救いとなると説く食行は江戸庶民から熱狂的に支持された[1]


身禄は角行から五代目(立場によっては六代目とする)の弟子で、富士山中において入定したことを機に、遺された弟子たちが江戸を中心に富士講を広めた。角行の信仰は既存の宗教勢力に属さないもので、食行身禄没後に作られた講集団も単独の宗教勢力であった。


一般に地域社会や村落共同体の代参講としての性格を持っており、富士山への各登山口には御師の集落がつくられ、関東を中心に各地に布教活動を行い、富士山へ多くの参拝者を引きつけた。特に宝永の大噴火以降復旧に時間がかかった大宮口や須山口は、江戸・関東からの多くの参拝者でにぎわった。最盛期では、吉田口には御師の屋敷が百軒近く軒を連ねていたほどであったのである。数多くの講社があり、江戸時代後期には「江戸八百八講、講中八万人」と言われるほどであった。


富士講は、江戸幕府からはその宗教政策上好ましくないと見なされしばしば禁じられたが、死者が出るほどの厳しい弾圧は受けなかった。


しかし、明治以後、神道勢力からの弾圧が非常に激しくなった。その結果、やむなく 富士講のその一部は教派神道と化し、食行の流れを汲む不二道による実行教、苦行者だった伊藤六郎兵衛による丸山教、更に平田門下にして富士信仰の諸勢力を結集して国家神道に動員しようとした宍野半による扶桑教などが生まれた。


明治以後、特に戦後、富士山やその周辺が観光地化され、登山自体がレジャーと認識されるようになり、気軽に富士登山をできるようになると、登山の動機を信仰に求めていた富士講は大きく衰退した。例えば、人穴富士講遺跡も碑塔の建設は1964年以降は行われていない[6]


冨士講は衰退し講員の数はめっきり減り、東京の街中などで講員が活動する姿を見ることはまず無くなったが、現在でも富士山に行けば富士講講員らが巡礼する姿を見ることができる。


2006年(平成18年)現在、十数講が活動し、3軒の御師の家(宿坊)がそれを受入れている[7]


詳しい事は『富士講ウィキペディア』を御覧下さい。 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E8%AC%9B

(wikiより)










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