酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

2575 江南哲夫墓(台東区谷中7-5-24・谷中霊園)

江南 哲夫(えなみ てつお、1853年嘉永6年) - 1916年大正5年)11月21日)は、会津藩士、白虎隊士、実業家、書家。旧姓林、諱は哲夫、号は蝦農。勲六等瑞宝章


経歴

文久元年(1861年)に会津藩の「南学館友善社」に入り漢学を修めると、大学試験に及第し藩校「日新館」に入る。戊辰戦争で、15歳で白虎隊士として越後口に転戦し、戦後高田に謹慎となる。謹慎の間、南摩羽峯に学び、明治3年(1870年)に赦されて上京、増上寺徳水院の藩塾に入る。のち淀藩主・稲葉正邦公の給費生となり、淀に赴き同藩校に入り、転じて同年大阪開成所に入り英学を修める。次いで、各地を転々とし、斗南藩の洋学塾および「東奥義塾」に学ぶ。


明治7年(1874年)に慶應義塾に入学し、卒業後の明治10年(1877年三菱合資会社に入り社長・岩崎弥太郎に随行し神戸・長崎支店に赴き、明治11年(1878年)に上海支店勤務。のち北海道での農業を志し職を辞し、岩崎弥之助の側近として興亜会などに関係した。明治17年(1884年第二十国立銀行に入り、函館支店支配人。明治21年(1888年第一銀行に入り韓国に渡り、明治24年(1891年)に帰国。明治30年(1897年東京火災保険会社に入社。明治33年(1900年)南山合資会社を設立し三菱から独立。これを売却し明治35年(1902年)に京釜鉄道に入社し、京城支店長となり重役を代理。明治37年(1904年)の速成令のため休職となり、明治38年(1905年)免職となる。明治41年(1908年日露戦争の功により勲六等瑞宝章を受章。


作詩や書道を好み『瓦礫集』を出版した。


著作

『朝鮮財政論』

『當五銭低落管見』


参考文献

・『慶應義塾出身名流列伝』 三田商業研究会編、実業之世界社、1909年(明治42年)6月。近代デジタルライブラリー

谷中・桜木・上野公園裏路地ツアー 江南哲夫

東洋文庫 WEB DB search result

(wikiより)


補足

 明治42年(1909)発行の慶応義塾出身名流列伝に、江南哲夫のことが書かれている。


 速成令:京釜線の工事の際、日露戦争に備え、トンネル工事と並行して、多段スイッチバック方式の仮線をトンネル両口間に工事して全線の完成を急がせた。この仮線は、5kmほどで、約10カ月使用された。


 正面「蝦農狂生麼骨之処」。


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/791.html
730 白虎隊 Part-1


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/792.html
731 白虎隊 Part-2


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1172.html
1089 飯沼貞雄翁墓(会津若松市東栄町3-46・飯盛山)










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