酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

2542 贈右大臣大久保公哀悼碑(千代田区紀尾井町2・清水谷公園)

明治十一年(1878)五月一四朝、麹町清水谷において、赤坂御所へ出仕する途中の参議兼内務卿・大久保利通が暗殺されました。


現在の内閣総理大臣にも匹敵するような立場にあった大久保の暗殺は、一般に「紀尾井坂の変」と呼ばれ、人々に衝撃を与えました。


また大久保の同僚であった明治政府の官僚たち(西村捨三・金井之恭・奈良原繁ら)の間からは、彼の遺徳をしのび、業績を称える石碑を建設しようとの動きが生じ、暗殺現場の周辺であるこの地に、明治二一年(1888)五月「贈右大臣大久保公哀悼碑」が完成しました。


「哀悼碑」の高さは、台座の部分も含めると六・二七メートルにもなります。


石碑の材質は緑泥片岩、台座の材質は、硬砂岩と思われます。


「贈右大臣大久保公哀悼碑」は、大久保利通暗殺事件という衝撃的な日本近代史の一断面を後世に伝えつつ、そしてこの碑に関係した明治の人たちの痕跡を残しつつ、この地に佇んでいます。


大久保公記念碑の裏面碑文内容の説明

ここは、大久保利通公が命を落とされた場所です、大久保公は天下の重大事に身を投じ天皇陛下の信頼を得て重きをなした元勲です。


突然の暗殺という悲運に会い命を落としました。


昔から忠臣や烈士といわれる人々が犠牲の死に会うのは悲しいことですが、乱世や騒乱の常です。


大久保公は明治維新の功績で名を挙げ、国がこれから栄え平和を迎える時に、この災いに会ったのです。


大久保公の死は、宮古の人たちは勿論のこと天皇陛下も深く悲しまれました。


大久保公を知る人で、悲しまない人はありませんでした。


大久保公の悲しい凶変から七年の年月が流れましたが、この地を通る人々は、今でも嘆き悲しみ頭を垂れて行きつ戻りつ立ち去ろうとはしません。


ここに、仕事で働く仲間達が皆で相談して碑を建て大久保利通公への哀悼の意を示すことにしました。
(案内板より)


● 紀尾井坂の変

紀尾井坂の変(きおいざかのへん)は、1878年明治11年)5月14日に、内務卿大久保利通東京府麹町区麹町紀尾井町清水谷(現在の東京都千代田区紀尾井町清水谷)で不平士族6名によって暗殺された事件。「紀尾井坂事件」「大久保利通暗殺事件」[1]ともいう。


暗殺犯の動向

実行犯石川県士族島田一郎長連豪杉本乙菊脇田巧一杉村文一および島根県士族の浅井寿篤の6名から成る(脇田は暗殺にあたり罪が家に及ぶのを恐れて士族を辞めて平民になった)。その中でも特に中心的存在であるのが島田一郎である。島田は加賀藩足軽として第一次長州征伐戊辰戦争に参加しており、明治維新後も軍人としての経歴を歩んでいたが、征韓論に共鳴しており、明治六年政変西郷隆盛が下野したことに憤激して以後、国事に奔走することになる。


杉村寛正(杉村文一の兄)らも征韓論にあたり従軍願いを出している。さらに台湾出兵にあたっては杉村・長らは再び従軍願いを出しており、台湾出兵中止の噂に対する反対の建白書や佐賀の乱の処理を批判する建白書には杉村(寛)・島田・後に斬奸状を起草する陸義猶(陸九皐)が名を連ねている。しかし、これらの建白書は期待した効果を生まず、島田らは実力行使路線を採ることになる。1874年(明治7年)に島田と長は東京で会い、意気投合している。


長は1874年(明治7年)6月に、台湾出兵について西郷、桐野利秋の見解を聞きに杉村(寛)、陸と鹿児島入りしている。長は半年ほど鹿児島に滞在し私学校留学している。長は1876年(明治9年)にも鹿児島入りして桐野らと旧交を温めている。


長が帰県した10月には神風連の乱秋月の乱萩の乱士族反乱が相次ぎ、島田も金沢で挙兵計画に奔走するが失敗。さらに翌1877年(明治10年)の西南戦争では、島田と長が協力して挙兵計画に奔走したが、周囲の説得に苦慮している間に、4月に政府軍熊本城に入城したとの情報を得て、勝敗は決したと計画を中止した。


この後、島田らは高官暗殺に方針を変更する。杉本・脇田・杉村らもこの時期に島田の計画に加わっている。脇田は10月、長は11月、杉村は12月、島田、杉本は翌年4月に上京している。唯一の島根県人である浅井は西南戦争当時警視庁巡査であり警視隊に属して従軍し、1877年(明治10年)8月に東京に凱旋していたが、禁令を犯して1878年(明治11年)2月に免職となり、3月に島田らの暗殺計画を知って計画に加わった。


彼らの暗殺計画は複数のルートを経て、当時の警察のトップである大警視川路利良の耳にも入っていたが川路は「石川県人に何ができるか」と相手にしなかった[2][注釈 1]


斬奸状

島田らが大久保暗殺時に持参していた斬奸状は、4月下旬に島田から依頼されて陸が起草したものである。そこでは、有司専制の罪として、以下の5罪を挙げている。

国会憲法も開設せず、民権を抑圧している。

・法令の朝令暮改が激しく、また官吏の登用に情実・コネが使われている。

・不要な土木事業・建築により、国費を無駄使いしている。

・国を思う志士を排斥して、内乱を引き起こした。

・外国との条約改正を遂行せず、国威を貶めている。


詳しい事は『紀尾井坂の変ウィキペディア』を御覧下さい。 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%B0%BE%E4%BA%95%E5%9D%82%E3%81%AE%E5%A4%89

(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/318.html
305 大久保利通暗殺刑死者(台東区・谷中霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1456.html
1350 大久保利通墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1640.html
1511 川路利良墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)










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