酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

267 榎本武揚の像(墨田区堤通二丁目・梅若公園内)

武揚は、天保七年(1836)下谷(現台東区)の通称・三味線掘に生まれました。


天性聡明で学問を好み、昌平黌(しょうへいこう)で儒学を、さらに江川太郎左衛門の塾でオランダ語・英語を学びました。


幕府の海軍伝習所が開設されると入所し、オランダ人共感より洋式海軍技術・蒸気機関・機械製造等を習得、当時未知の学問であった科学までも学びました。


さらに文久二年(1862)にオランダに留学、国際法規も修めました。


帰国後、軍艦奉行や海軍副総裁へと昇進、幕府海軍の柱となります。


幕府が崩壊するや軍艦を率いて函館の五稜郭に拠り、薩長軍と戦いますが敗れて捕らえられます。


しかし、明治新政府内に彼の人物を惜しむ声が強く、明治五年許されました。


当時難関とされた樺太帰属問題解決のため、海軍中将・特命全権公使としてペトログラードに派遣され、みごとに交渉に成功します。


その後、逓信・文部・外務・農商務の各大臣を歴任、枢密顧問官となり、功より子爵を授けられました。


晩年は向島に住み、墨提を馬に乗って散歩する等悠々自適の生活を楽しみ、同四十一年に七十三歳で死去しました。


隅田公園内の「墨提植桜之碑」や多門寺の「毘沙門天」の標石等、武揚の筆跡が区内に所々残されています。
(案内板より)


● 榎本武揚
榎本 武揚(えのもと たけあき、1836年10月5日天保7年8月25日) - 1908年明治41年)10月26日)は、日本武士幕臣)、化学者外交官政治家海軍中将正二位勲一等子爵通称釜次郎注 1]梁川(りょうせん)">[注 2]。榎、釜を分解した「夏木金八(郎)」という変名も用いていた[3][4]。なお、武揚は「ぶよう」と故実読みでも呼ばれた。


伊能忠敬の元弟子であった幕臣・榎本武規(箱田良助)の次男として生まれる。昌平坂学問所長崎海軍伝習所で学んだ後、幕府の開陽丸発注に伴いオランダへ留学した。帰国後、幕府海軍の指揮官となり、戊辰戦争では旧幕府軍を率いて蝦夷地を占領、いわゆる「蝦夷共和国」の総裁となった。箱館戦争で敗北し降伏、東京・辰の口の牢獄に2年半投獄された。


敵将・黒田清隆の尽力により助命され、釈放後、明治政府に仕えた。開拓使北海道の資源調査を行い、駐露特命全権公使として樺太千島交換条約を締結したほか、外務大輔、海軍卿、駐清特命全権公使を務め、内閣制度開始後は、逓信大臣文部大臣外務大臣農商務大臣などを歴任、子爵となった。


また、メキシコに殖民団を送ったほか、東京農業大学の前身である徳川育英会育英黌農業科や、東京地学協会電気学会など数多くの団体を創設した。


生涯
生い立ち
1836年天保7年)、江戸下谷御徒町柳川横町(現在の東京都台東区浅草橋付近)、通称・三味線堀の組屋敷で西丸御徒目付・榎本武規の次男として生まれる[5]


近所に住んでいた田辺石庵[注 3]に入門し儒学を学んだ[7]後、1851年嘉永4年)、昌平坂学問所に入学。1853年(嘉永6年)に修了するが、修了時の成績は最低の「丙」であった[8][注 4]1854年安政元年)、箱館奉行堀利煕の従者として蝦夷地箱館(現在の北海道函館市)に赴き、蝦夷地・樺太巡視に随行[9]1855年(安政2年)、昌平坂学問所に再入学する(翌年7月退学)[8]が、同年長崎海軍伝習所の聴講生となった後、1857年(安政4年)に第2期生として入学[注 5]。海軍伝習所では、カッテンディーケポンペらから機関学、化学などを学んだ[12]。カッテンディーケは伝習所時代の榎本を高く評価していた[注 6]


1858年(安政5年)海軍伝習所を修了し、江戸の築地軍艦操練所教授となる[14]。また、この頃、ジョン万次郎の私塾で英語を学び、後に箱館戦争をともに戦う大鳥圭介と出会う[8]


オランダ留学
開陽丸#発注」も参照


1861年文久元年)11月、幕府はアメリカに蒸気軍艦3隻を発注するとともに、榎本・内田正雄澤太郎左衛門赤松則良田口俊平津田真道西周をアメリカへ留学させることとした。しかし、南北戦争の拡大によりアメリカ側が断ったため、翌1862年(文久2年)3月にオランダに蒸気軍艦1隻(開陽丸)を発注することとし、留学先もオランダへ変更となった[15]


同年6月18日、留学生一行は咸臨丸で品川沖から出発。途中、榎本・沢・赤松・内田が麻疹に感染したため下田で療養し、8月23日長崎に到着[16]。9月11日、オランダ船カリップス号で長崎を出航、バタビアへ向かう。ジャワ島北方沖で暴風雨に遭い、船が座礁し無人島へ漂着するが、救出されてバタビアで客船テルナーテ号に乗り換える[17]セントヘレナ島ナポレオンの寓居跡などを訪ねた後、1863年(文久3年)4月18日、オランダ・ロッテルダムに到着した[18]。オランダでは当時海軍大臣となっていたカッテンディーケやポンペの世話になった。榎本はハーグで下宿し、船舶運用術、砲術蒸気機関学、化学、国際法を学んだ[19]


1864年元治元年)2月から3月にかけ、赤松則良とともにシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争観戦武官として見学した[注 7]プロイセンオーストリア軍の戦線を見学した後、デンマークに渡り、同軍の戦線を見学した[21]。その後、エッセンクルップ本社を訪れ、アルフレート・クルップと面会した[22]。また、フランスが幕府に軍艦建造・購入を提案したことを受け、内田とパリへ赴き、フランス海軍と交渉した[23]ほか、赤松とイギリスを旅行、造船所や機械工場、鉱山などを視察した[24]


1866年慶応2年)7月17日に開陽丸が竣工し、同年10月25日、榎本ら留学生は開陽丸とともにオランダ・フリシンゲン港を出発、リオデジャネイロアンボイナを経由して、1867年(慶応3年)3月26日、横浜港に帰着した[25]


5月10日に幕府に召し出され[26]、100俵15人扶持、軍艦役・開陽丸乗組頭取(艦長)に任ぜられる[27]。7月8日に軍艦頭並[28]となり、布衣を許される[29]。9月19日に軍艦頭となり、和泉守[注 8]を名乗る[27]。同年、オランダ留学生仲間の林研海の妹(奥医師・林洞海の長女)・たつと結婚した[31]


詳しい事は『榎本武揚ウィキペディア』を御覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%8E%E6%9C%AC%E6%AD%A6%E6%8F%9A
(wikiより)


関連情報
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6341 古谷簡一墓(台東区谷中1丁目・谷中霊園)


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