酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

1917 俵孫一墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

俵 孫一(たわら まごいち、1869年6月16日明治2年5月7日) - 1944年昭和19年)6月17日)は、日本官僚政治家衆議院議員商工大臣立憲民政党幹事長などを歴任した。従二位勲一等


冶金学者俵国一は弟。浜田市長を務めた俵三九郎は甥。政治評論家の俵孝太郎は孫。


経歴
1869年明治2年)5月7日、現在の島根県浜田市に俵家の3代目・三九郎、ミナの五男として生まれる。幼少の頃から家業の醤油醸造ろうそくの製造販売等を手伝う。


浜田中学(現・島根県立浜田高等学校)、共立学校(現・開成中学校)、第一高等学校を経て1895年(明治28年)帝国大学法科大学英法科(現東京大学法学部)を卒業する。卒業後は内務官僚として官界に入り、1907年(明治40年)大韓帝国の学部次官、1910年(明治43年)同国の土地調査局副総裁(後の朝鮮総督府臨時土地調査局副総裁)に就任。本国に帰国した後、三重県知事宮城県知事、北海道庁長官、拓殖事務局長を歴任する。


1924年大正13年)憲政会から衆議院議員総選挙に立候補し当選する。以後、憲政会、民政党に所属し、通算6期当選。加藤高明内閣鉄道政務次官内務政務次官に就任し、1929年昭和4年)には民政党幹事長。浜口雄幸内閣で商工大臣となる。浜口内閣総辞職後は、民政党の重鎮として、総務、政策調査会長を務めた。太平洋戦争中の1942年(昭和17年)に実施された翼賛選挙では、推薦候補となるも落選し、1944年(昭和19年)6月17日に死去した。


人物
大政翼賛会の成立に際し、俵は「政党の解消と単一政党の出現は国民の正しき判断力を相殺するもので、批判なき所には必ず腐敗が伴う」と語ったという。[1]


栄典
1907年(明治40年)12月10日 - 正五位[2]
1909年(明治42年)4月18日 - 皇太子渡韓記念章[3]
1912年(大正元年)8月1日 - 韓国併合記念章[4]
1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[5]


外国
1910年(明治43年)4月26日 - 大韓帝国韓国皇帝陛下南西巡幸記念章[6]


関連項目
大日本運動 


外部リンク
俵孫一 銅像


脚注
1. 『敗因を衝く』 田中隆吉 山水社 1946年1月20日 33p
2. 『官報』第7337号「叙任及辞令」1907年12月11日。
3. 『官報』第7771号「叙任及辞令」1909年5月24日。
4. 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
5. 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
6. 『官報』第8068号「叙任及辞令」1910年5月17日。
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3630.html
3378 浜口雄幸首相遭難現場(東京駅・新幹線中央乗換口付近)


 俵 孫一









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