酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

1910 郷純造墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

郷 純造(ごう じゅんぞう、文政8年4月26日1825年6月12日)- 明治43年(1910年12月2日)は、日本武士幕臣大蔵官僚政治家である。男爵


人物
美濃国黒野(現在の岐阜市黒野)の豪農の三男として生まれる。弘化元年(1845年江戸に出て大垣藩用人に武家奉公した後に旗本など奉公先を転々とするが、長崎奉行牧義制の納戸役として嘉永5年(1853年)のオランダ使節来訪問題に対応し、続いて箱館奉行堀利煕の用人としてその樺太蝦夷地巡回に随行するなど対外問題に遭遇、更にその経験を大阪町奉行鳥居忠善に買われて貿易問題を担当して同家の家老として抜擢された。


鳥羽・伏見の戦い直前に撒兵隊に属する御家人の株を買って幕臣となり、程なく差図役(士官)に登用され、最終的には撒兵隊差図役頭取、旗本となる。


江戸開城前後、同隊の新政府に対する徹底抗戦路線には従わずに江戸開城後は新政府軍に従った。


明治維新後は新政府に入り大蔵官僚として活躍する。


特に渋沢栄一前島密杉浦愛蔵ら旧幕臣の登用を大隈重信伊藤博文らに薦めた功績は特筆すべきである。


だが、それが原因で幕臣嫌いの大久保利通から憎まれていた(明治3年10月25日の大久保から岩倉具視あての書簡には郷を「断然免職か転勤ニならす」と名指しで明記されているほどである)。


そのため、大久保が大蔵卿に就任して政権の中枢を担った時代には重要ポストから外されて干されることになった。


大久保の没後、大隈や伊藤が政権の中枢に立つようになると漸く再評価されて大蔵大輔(後に初代大蔵次官と改称)を務めたが、実務官僚の地位に留まった背景には大久保政権下の不遇時代が尾を引いたからと言われている。


退官後は貴族院議員となった。


略歴
1868年慶応 4年) - 5月、工兵差図役頭取。8月鎮将府会計局組頭
1869年(明治 2年) - 大蔵少丞
1870年(明治 3年) - 大蔵大丞
1872年(明治 5年) - 負債取調掛
1874年(明治 7年) - 国債頭
1877年(明治10年) - 国債局長
1882年(明治15年) - 大蔵少輔心得
1884年(明治17年) - 大蔵少輔兼主税局長
1886年(明治19年) - 大蔵次官
1888年(明治21年) - 退官
1891年(明治24年)4月15日 - 貴族院勅選議員[1]
1899年(明治32年)8月14日 - 錦鶏間祗候[2]
1900年(明治33年)5月9日 - 勳功特授 男爵[3]


詳しい事は『郷純造ウィキペディア』を御覧下さい。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%B7%E7%B4%94%E9%80%A0
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3832.html
3557 織部正爽烈堀府君之墓(文京区小石川2-23-14・源覚寺)










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