酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

1907 野村辰太郎(維章)墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

野村 維章(のむら これあき、弘化元年4月8日(1844年5月24日) - 明治36年(1903年5月7日)は、江戸時代末期(幕末)の志士、明治時代の司法官。海援隊の隊員の一人。別名は要輔。幕末期は辰太郎と名乗る。


生涯

弘化元年(1844年) 、土佐国小高坂村で土佐藩士、白札格の野村亀四郎の長男として生まれる。


万延元年(1860年)、父・亀四郎に従い江戸に出て、江川英敏に入門して新式砲術を学び、これにより文久2年(1862年)3月には土佐藩の砲術教授役となる。


元治元年(1864年)10月には、土佐藩船南海丸に乗り込み長崎へ渡航し、長崎何礼之塾で英語を学び、そこで坂本龍馬と知り合う。翌年に龍馬は長崎で亀山社中(後の海援隊)を結成すると、維章は慶応2年(1866年)6月に脱藩して社中に加わった。社中では江戸で学んだ新式砲術術が役立ち、同年6月に社中が購入した大極丸に、同門だった白峰駿馬と船長となる。慶応3年(1867年)4月に改編成された海援隊にも加わり、中枢の一人として活躍した。ところが同年11月に隊長の龍馬が暗殺され、求心力が失われた海援隊は内部分裂を起こし、翌慶応4年(1868年)1月15日には、維章は同志と空になった長崎奉行所を占拠。なおその際、誤って薩摩藩士を射殺し切腹した沢村惣之丞の最期にも立ち会った。海援隊は同年閏4月に海援隊は解散となった。


その後、同志の千屋寅之助らと7月に振遠隊に参加、幹部として戊辰戦争に従軍し、奥羽鎮撫総督府の参謀添役として奥羽で戦功を挙げた(明治元年(1868年) - 明治2年(1869年))。


明治維新後は新政府に出仕し、佐賀県権参事・参事を歴任した後、明治10年(1877年1月22日、2代茨城県権令に就任する。翌明治11年(1878年7月25日には引き続いて初代茨城県令に就任するが、明治13年(1880年3月8日に退任。


その後は司法官に転じ、宮城東京大阪函舘などの控訴院検事を歴任し、東京控訴院検事長・大阪控訴院検事長にまで進んだ。明治33年(1900年5月9日には明治維新の功により男爵を授爵した。


明治36年(1903年)5月7日に死去(享年60)。死去同日に勲一等瑞宝章が受章された。墓は東京都港区青山霊園内にある。


栄典

1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[1]

1900年(明治33年)5月9日 - 男爵[2]


脚注

1. 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。

2. 『官報』第5053号・号外「授爵叙任及辞令」1900年5月9日。

(wikiより)


関連情報

http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/347.html
334 坂本龍馬墓(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/361.html
343 白峰駿馬墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)










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