酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


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何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

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1571 小磯國昭墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

小磯 國昭(こいそ くにあき、1880年明治13年)3月22日 - 1950年昭和25年)11月3日)は、日本陸軍軍人政治家階級陸軍大将位階従二位勲等勲一等功級功二級


陸軍次官、関東軍参謀長、朝鮮軍司令官を歴任後、予備役入りした。その後拓務大臣(第1517代)、朝鮮総督(第9代)を務め、太平洋戦争中にサイパン失陥を受け辞職した東條英機の後継として1944年に内閣総理大臣第41代)に就任した。悪化の一途をたどる戦局の挽回を果たせず、中華民国との単独和平交渉も頓挫し、小磯は1945年4月に辞任し鈴木貫太郎に後を譲った。戦後はGHQにより戦犯容疑で起訴され東京裁判終身刑の判決を受け服役中に死去した。


生涯

栃木県宇都宮山形県士族(旧新庄藩士)で警察署警部であった小磯進の長男として生まれた。山形県中学校陸軍士官学校(12期)、陸軍大学校(22期)卒業。


小磯は陸大での成績が同期55人中33番であり、20番以下の成績の者で小磯ほど出世した者は他にはいない。若い頃はエリートコースを歩んでおらず、陸軍内の派閥にも属していなかった。このような事情により小磯の陸軍内での人気は高くなかった。しかし陸軍屈指の実力者であった宇垣一成にその能力を買われ、陸士同期の杉山元二宮治重らとともに側近として重用される。畑俊六とあわせたこの四人は、陸士、陸大の同期で、かつ仲違いもせず昇進していく。


1930年(昭和5年)、杉山の後任として軍務局長に抜擢されると、人付き合いの良さや耳学問と読書で吸収した知識を活かし頭角を現した。その演説は理論構成もしっかりし、表現力も豊かで一級品といわれた。1931年(昭和6年)には宇垣を首班とする軍事政権樹立を図る三月事件に中心人物として関与。結局この計画は中止されるが、その後の小磯の軍歴に大きな影響を及ぼす。


三月事件、十月事件等の責任問題を背景に同年11月、荒木貞夫が陸相となり、いわゆる皇道派が陸軍内の実権を握ると、彼等は宇垣閥の排除を開始。小磯は1932年(昭和5年)2月に陸軍次官に昇進するものの、半年で中央を追われ関東軍参謀長となる。後任次官には陸士同期の皇道派、柳川平助が就いた。その後は皇道派と永田鉄山東條英機統制派の角逐が続くが、1936年(昭和11年)に二・二六事件が勃発、翌年までの粛軍人事で皇道派は壊滅した。朝鮮軍司令官であった小磯は大将に昇進するが、寺内寿一梅津美治郎ら陸軍首脳部とは疎遠となっており、予備役間近と考えられていた。


1937年(昭和12年)、廣田弘毅の後継として宇垣に組閣の大命が降下する。嘗て陸軍の首魁であった宇垣の掣肘を嫌う石原莞爾ら省部中堅層の策動があり、陸軍首脳部は三月事件の責任や派閥色を名目に陸相を推薦せず、、軍部大臣現役武官制を利用して宇垣内閣の成立を拒否する決定を下していた。宇垣は小磯に陸相就任を直接要請するが、小磯は「三長官の同意は得ましたか」と躱し要請を拒否、結局宇垣内閣は組閣流産となった。「受諾しても東京に着くまでに予備役にされてしまう」と宇垣に伝えていたともされている。宇垣は「小磯の台頭が炎となり小磯の軽挙が招来したる三月事件が其の口実に利用せらるる(中略)。彼の捨身的奮起を促し見たりしが、彼も凡庸儕輩と等しく明哲保身以外に立ち得ざりしは可憐なり矣」(宇垣日記)と憤りを露わにしている。


1938年(昭和13年)に予備役編入。1939年(昭和14年)、平沼内閣において拓務大臣として初入閣した。翌年には米内内閣でも拓務大臣として再入閣を果たした。


太平洋戦争開戦後の1942年(昭和17年)に朝鮮総督に就任し、「内鮮一体」をスローガンに前任者の南次郎総督が行った皇民化政策をよりいっそう押し進めた。小磯は朝鮮人官吏の登用、朝鮮人企業の推進、朝鮮人の政治関与の実現などを掲げ、1944年(昭和19年)には朝鮮にも徴兵制度を施行した。また朝鮮独立について小磯は「今更、朝鮮の独立を夢みるのは九州や、北海道が独立を企図すると同じで馬鹿げた意味のないこと」と否定的な発言を行っている。


1922年(大正11年)の欧州航空兵力視察の経験から、空軍力の充実を持論としていた。


首相就任

アメリカ軍の反攻が本格化すると重臣らによって東條内閣の倒閣運動が発生し、サイパン失陥によって東條は辞任を余儀なくされた。後任を決める重臣会議では、南方軍司令官の寺内寿一、朝鮮総督の小磯、支那派遣軍司令官の畑俊六の3人に候補が絞られるが、前線指揮官の寺内、畑が除外され米内光政平沼騏一郎らが推した小磯に落ち着いた。東条内閣倒閣工作に関与していた重臣たちは後任までは詳細に検討していなかった。若槻禮次郎の回想によると、「陸軍大将を任官年次の古い順に見ていって適当な人物を捜すという総理大臣を推薦するのか何を推薦するのかわからんようなことをやって」小磯が登場した。


昭和天皇独白録』によると、昭和天皇は東條の後継候補の中で「小磯は三月事件にも関係があったと云われてゐるし、又神がヽりの傾向もあり、且経済の事も知らない」と低く評価している[1]。首相就任時には予備役となってから7年も経っており、「日本はこんなに負けているのか」と発言するほど戦況に疎かった。首相就任に当たり現役復帰、陸相兼摂も考慮したが、陸軍内部の反対が強く断念。予備役のまま首相に就任したため、戦局を検討する大本営の会議にも規則により出席できなかった。軍だけではなく近衛文麿木戸幸一も小磯への不信感が強く、近衛の発案で、元首相で海軍の重鎮である米内光政を予備役から現役に復帰させ、小磯と米内に対し「協力して内閣の組織を命ずる」という大命を降下させ、事実上の「小磯・米内連立内閣」とした。米内の現役復帰にも海軍内部では異論があったが、天皇の内意ということで決着した。官制上は小磯が首相、副首相の米内が海相であり、話を受けた米内は「首班はどちらなのか」と確認して「それはやはり小磯さんです」との回答を得ると「それなら小磯君がやりたいようにやればいい」とほとんど小磯に任せきりだった。


焦点の陸相人事は、首相、参謀総長を辞した東條が陸相のみ留任の姿勢を見せ、波乱含みの展開となる。小磯は山下奉文阿南惟幾いずれかの起用を望んだが容れられず、結局は東條、梅津美治郎参謀総長、杉山元教育総監による三長官会議で、杉山が陸相に回ることとなった[2]。小磯と杉山は既に往時の親密な関係ではなく、戦局の円滑な情報交換に不安を残す結果となった。


小磯は米軍に一撃を加えた上で対米講和を図ることを意図していた。しかし陸軍は小磯の意向通りに動かず、小磯が最高戦争指導会議で発言すると、秦彦三郎陸軍参謀次長が「近代的作戦用兵を知らない首相は口出しするな」とたしなめることもあった。陸軍省内では「この内閣は2ヶ月で潰す」という放言がまかり通っていた。レイテ沖海戦では手痛い打撃を受けた。さらにレイテ決戦を断念したという陸軍の決定を伝えられておらず、「レイテ決戦は天王山」と呼号していた小磯は昭和天皇から作戦中止を聞かされ大恥をかいた。東京をはじめとする本土空襲は激しさを増し、小磯は現役に復帰して陸相を兼務し指揮体制の一元化を図ろうとするが、またも陸軍の反対で潰されてしまう。緒方竹虎情報局総裁とともに蒋介石政権との単独和平工作(繆斌工作)を画策し、いったんは陸海軍の了解を取り付けたが、繆を信頼できない人物だと確信していた重光葵外相、杉山陸相、米内海相、昭和天皇の反対にあい頓挫した。折から、本土決戦へ向けた第1総軍新設に際して杉山陸相がその総司令官として転出することになったため、小磯はあらためて自身が現役復帰し陸相に就任しようと試みたが、三長官会議では阿南惟幾を後任の陸相に選び、八方塞がりとなった小磯内閣は成立から約8ヵ月半で1945年4月7日に内閣総辞職した。


1944年9月7日には、インドネシアの独立を認容する「小磯声明」を発表している。


詳しい事は『小磯國昭ウィキペディア』を御覧下さいませ。 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%A3%AF%E5%9C%8B%E6%98%AD

(wikiより)


 小磯國昭










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