酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

酔いどれJohnnyで御座います

小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

1565 西周墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

西 周 (にし あまね、文政12年2月3日1829年3月7日) - 明治30年(1897年1月31日) は江戸時代後期から明治時代初期の幕臣官僚啓蒙思想家、教育者貴族院議員、男爵錦鶏間祗候西 周助ともいう。勲一等瑞宝章1897年)。


生涯
の生家がある。西の生家では、彼がこもって勉学に励んだというが保存されている。


漢学の素養を身につける他、天保12年(1841年)に藩校養老館蘭学を学んだ。安政4年(1857年)には蕃書調所の教授並手伝となり津田真道と知り合い、哲学ほか西欧の学問を研究。文久2年(1862年)には幕命で津田真道・榎本武揚らとともにオランダに留学し、フィセリングに法学を、またカント哲学経済学国際法などを学ぶ。オランダ留学中の1864年ライデンフリーメイソンリーの「ラ・ベルトゥ・ロッジ・ナンバー7」に入会している。[要出典]慶応元年(1865年)に帰国した後、目付に就任[1]徳川慶喜の側近として活動する。王政復古を経た慶応4年(1868年)、徳川家によって開設された沼津兵学校初代校長に就任。同年、『万国公法』を訳刊。明治3年(1870年)には乞われて明治政府に出仕、以後兵部省文部省宮内省などの官僚を歴任し、軍人勅諭軍人訓戒の起草に関係する等、軍政の整備とその精神の確立につとめた。


明治6年(1873年)には森有礼福澤諭吉加藤弘之中村正直西村茂樹・津田真道らと共に明六社を結成し、翌年から機関紙『明六雑誌』を発行。啓蒙家として、西洋哲学の翻訳・紹介等、哲学の基礎を築くことに尽力した。


東京学士会院(現在の日本学士院)第2代及び第4代会長[2]獨逸学協会学校(現在の獨協学園)の初代校長を務めた。


明治17年(1884年)頃から右半身が麻痺しはじめ、明治20年(1887年)、健康上の理由により文部省陸軍省学士会院会員の公職を辞職した。明治23年(1890年)9月29日には貴族院勅選議員に任じられ[3]、同年10月20日、錦鶏間祗候となる[4]。明治24年(1891年)、体の衰弱が著しくなり貴族院議員を辞職した。明治25年(1892年)、大磯の別邸に移った。歩行は不自由で外出は不可能であったが、学問の研究は続けられ、西洋の心理学と、東洋の儒教・仏教の思想を統一した新しい心理学の体系を書き続けた。その著『生性発蘊』は、遂に未完に終わった。明治30年(1897年)、明治天皇は西の功績に対し勲一等瑞宝章男爵の位を授けた。同年1月31日に死去。享年68。墓所は東京都港区青山霊園


獨逸学協会学校
明治14年(1881年)、獨逸学協会の創立に参画し、2年後の開校にあたり初代校長に就任した。西は獨逸学協会学校開校式の演説において「そもそも、学をなす道はまず志を立つるにあり」「志を立てて学問に従事すれば、これに次ぐものは勉強にあり」と述べている。


人物

西洋語の「philosophy」を音訳でなく翻訳語和製漢語)として「希哲学」という言葉を創った[5]ほか、「藝術(芸術)」「理性」「科學(科学)」「技術」「心理学」「意識」「知識」「概念」「帰納」「演繹」「定義」「命題」「分解」など多くの哲学・科学関係の言葉は西の考案した訳語である。


・上記のように漢字の熟語を多数作った一方ではかな漢字廃止論を唱え、明治7年(1874年)、『明六雑誌』創刊号に、『洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論』を掲載した。


・著書に『百学連環』、『百一新論』、『致知啓蒙』など。


・森鷗外は系譜上、親族として扱われるが、鷗外の母方の祖父母及び父が養子であったため血のつながりはない。


詳しい事は『西周ウィキペディア』を御覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%91%A8_(%E5%95%93%E8%92%99%E5%AE%B6)
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/271.html
267 榎本武揚の像(墨田区堤通二丁目・梅若公園内)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1287.html
1188 加藤弘之墓(豊島区南池袋4丁目・雑司が谷霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/2881.html
2600 中村正直墓(台東区谷中7-7・了院寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/4747.html

4317 山本覚馬墓(京都府左京区鹿ケ谷若王子山町・同志社墓地)


 西 周