酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

1560 田中久重墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

田中 久重(たなか ひさしげ、寛政11年9月18日1799年10月16日) - 明治14年(1881年1月11日)は、江戸時代後期から明治にかけての発明家。「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ばれた。芝浦製作所(後の東芝の重電部門)の創業者。


 万年時計こと万年自鳴鐘和時計


生涯

田中製作所の設立まで

寛政11年9月18日(1799年10月16日)、筑後国久留米(現・福岡県久留米市)の鼈甲細工師・田中弥右衛門の長男として生まれた。幼名は儀右衛門。

幼い頃から才能を発揮し、五穀神社(久留米市通外町)の祭礼では当時流行していたからくり人形の新しい仕掛けを次々と考案して大評判となる。20代に入ると九州各地や大阪京都江戸でも興行を行い、その成功により日本中にその名を知られる。特に有名なのが1820年代に製作した「弓曳き童子」と「文字書き人形」で、これらは、からくり人形の最高傑作といわれている[1][2]


天保5年(1834年)には上方へ上り、大坂船場の伏見町(大阪市中央区伏見町)に居を構えた。同年に折りたたみ式の「懐中燭台」、天保8年(1837年)に圧縮空気により灯油を補給する灯明の「無尽灯」などを考案し「からくり儀右衛門」と呼ばれ人気を博する。その後京都へ移り、弘化4年(1847年)に天文学を学ぶために土御門家に入門、天文学の学識も習得した田中は、最も優れた職人に与えられる「近江大掾」(おうみだいじょう)の称号を得た。嘉永3年(1850年)に革新的和時計須弥山儀(しゅみせんぎ)を製作し、この頃に蘭学者の廣瀨元恭が営む「時習堂」(じしゅうどう)に入門し、様々な西洋の技術を学ぶ。嘉永4年(1851年)には、季節によって昼夜の時刻の長さの違う日本の不定時法に対応して、季節により文字盤の間隔が全自動で動くなどの世界初となる様々な仕掛けを施した「万年自鳴鐘」を完成させた[1]


その後、再び西下して佐賀に移住した久重は、嘉永6年(1853年)、佐野常民の薦めで蘭学狂いといわれた鍋島直正が治める肥前国佐賀藩の精煉方に着任し、国産では日本初の蒸気機関車及び蒸気船の模型を製造する。また、軍事面では反射炉の設計(改築)と大砲製造に大きく貢献した。文久元年(1861年)には佐賀藩の三重津海軍所で、藩の蒸気船「電流丸」の蒸気罐製造の担当となり、文久2年(1862年)には幕府蒸気船の千代田形蒸気罐の修繕を行う。文久3年(1863年)には実用的に運用された国産初の蒸気船である「凌風丸」(御召浅行小蒸気船)建造の中心的メンバーとなっている。これらの文献記録を裏付けるように、三重津海軍所では鉄板圧着に使う鉄鋲(リベット)が多量に出土しており、蒸気罐組立に伴う遺物の可能性が高いと報告されている。元治元年(1864年)には佐賀から久留米に帰り、久留米藩の軍艦購入や銃砲の鋳造に携わり、同藩の殖産興業等にも貢献した。


田中製造所の設立と晩年

明治6年(1873年)に、新政府首都となった東京に移る。75歳となった明治8年(1875年)に東京京橋区南金六町9番地(現在の銀座8丁目9番15号)に電信機関係の製作所・田中製造所を設立。

明治14年(1881年)1月11日、82歳で死去。墓所は青山霊園。久重の死後、田中製造所は養子の田中大吉2代目久重)が引き継いで芝浦に移転し、株式会社芝浦製作所となる。後に東京電気株式会社と合併、浦電気株式会社となり、これが現在の東芝の基礎となった。高い志を持ち、創造のためには自らに妥協を許さなかった久重は、「知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に、成就があるのである」との言葉を残している。

田中製作所に勤め後に独立などをした人物。


沖牙太郎:大吉と同僚で久重の製作所にも出向していた。明工舎(現在の沖電気)創業者。

宮田政治郎モリタ宮田工業創業者、宮田栄助の次男で久重の製作所に勤務。

池貝庄太郎池貝の創業者。

石黒慶三郎アンリツ創業者の1人。

田岡忠次郎三吉正一など。


詳しい事は『田中久重ウィキペディア』を御覧下さいませ。 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E4%B9%85%E9%87%8D

(wikiより)


 田中久重










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