酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

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1511 川路利良墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

川路 利良(かわじ としよし、天保5年5月11日1834年6月17日) - 明治12年(1879年10月13日)は、日本の幕末から明治初期の薩摩藩士警察官僚陸軍軍人階級大警視陸軍少将位階正五位勲等勲二等
初代大警視(警視総監)を務め、欧米の近代警察制度を日本で初めて構築した「日本警察の父」。西南戦争では陸軍少将を兼任し、警視隊で組織された別働第三旅団指揮した。


は当初「としなが」と名乗っていたが、後に「としよし」と改名したようである。通称は正之進。は竜泉。家紋は六つ丁子車。遠祖は藤原氏といわれる[1]


生涯
生い立ち
薩摩藩与力(準士分)・川路利愛の長男として薩摩国鹿児島郡鹿児島近在比志島村(現在の鹿児島県鹿児島市皆与志町比志島地区)に生まれる。薩摩藩の家臣上士郷士などに分かれ、川路家は身分の低い準士分であった。重野安繹漢学を、坂口源七兵衛に真影流剣術を学ぶ。


幕末期の戦功
元治元年(1864年)、禁門の変長州藩遊撃隊総督の来島又兵衛狙撃して倒すという戦功を挙げ、西郷隆盛大久保利通から高く評価された。慶応3年(1867年)、藩の御兵具一番小隊長に任命され、西洋兵学を学んだ。


慶応4年(1868年)、戊辰戦争鳥羽・伏見の戦いに薩摩官軍大隊長として出征し、上野戦争では彰義隊潰走の糸口をつくる。東北に転戦し、磐城浅川の戦いで敵弾により負傷したが、傷が癒えると会津戦争に参加。戦功により明治2年(1869年)、藩の兵器奉行に昇進した。


警察制度の確立

維新後の明治4年(1871年)、西郷の招きで東京府大属となり、同年に権典事、典事に累進。翌年、邏卒総長に就任し、司法省の西欧視察団(8人)の一員として欧州各国の警察を視察する。帰国後、警察制度の改革を建議し、ジョゼフ・フーシェに範をとったフランスの警察制度を参考に日本の警察制度を確立した。


明治7年(1874年)、警視庁創設に伴い満40歳で初代大警視(後の警視総監)に就任 (この年齢は現在でも史上最年少)。執務終了後ほぼ毎日、自ら東京中の警察署派出所を巡視して回り、一日の睡眠は4時間に満たなかったという。


西南戦争

明治六年政変で西郷隆盛が下野すると、薩摩出身者の多くが従ったが、川路は「私情においてはまことに忍びないが、国家行政の活動は一日として休むことは許されない。大義の前には私情を捨ててあくまで警察に献身する」と表明した。


内務卿となった大久保利通から厚い信任を受け、不平士族喰違の変佐賀の乱などを起こすと密偵を用いて動向を探った。薩摩出身の中原尚雄ら24名の警察官を「帰郷」の名目で鹿児島県に送り込み、不平士族の離間工作を図ったが、中原らは西郷の私学校生徒に捕らえられた。苛烈な拷問が行われた結果、川路が西郷を暗殺するよう指示したという「自白書」がとられ、川路は不平士族の間では大久保と共に憎悪の対象とされた。


西南戦争勃発後、川路は陸軍少将を兼任し、警視隊で組織された別働第三旅団の長として九州を転戦する。激戦となった3月の田原坂の戦いでは、警視隊から選抜された抜刀隊が活躍して西郷軍を退ける。5月には大口攻略戦に参加した後、6月には宮之城で激戦の末、西郷軍を退けて進軍するが、その後旅団長を免じられ東京へ戻る。旅団長は大山巌(後の第2代大警視)が引き継いだ。


終戦後の明治11年(1878年)3月、黒田清隆の妻が急死した際、かねてより酒乱で知られていた黒田が酒に酔って妻を斬り殺したとの噂が流れたため、川路が墓を開け、病死であることを確認したと発表した。これについては、川路も薩摩出身であることから黒田をかばってもみ消したという見方が当時からあり[2][3]、同年5月に発生する、川路の庇護者であった大久保利通の暗殺(紀尾井坂の変)の遠因になったともいわれる。


死去
明治12年(1879年)1月、再び欧州の警察を視察。しかし船中で病を得、パリに到着当日はパレ・ロワイヤルを随員と共に遊歩したが、宿舎に戻ったあとは病床に臥してしまう。咳や痰、時に吐血の症状も見られ、鮫島尚信駐仏公使の斡旋で現地の医師の治療を受け、転地療養も行ったが病状は良くならなかった。同年8月24日、郵船「ヤンセー号」に搭乗し、10月8日帰国。しかし東京に帰着すると病状は悪化、10月13日に死去した。享年46。関西の政商である藤田組汚職の捜査を恐れ毒殺したという噂も立った。墓所は青山霊園


詳しい事は『川路利良ウィキペディア』を御覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E8%B7%AF%E5%88%A9%E8%89%AF
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/318.html
305 大久保利通暗殺刑死者(台東区・谷中霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1424.html
1318 黒田清綱墓(港区西麻布2-21-34・長谷寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1456.html
1350 大久保利通墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1739.html
1594 川路正之進利良旧居跡(台東区下谷3-15-9・下谷警察署)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/2445.html
2230 篠原秀太郎墓(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/2811.html
2542 贈右大臣大久保公哀悼碑(千代田区紀尾井町2・清水谷公園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6332.html

5496 佐和 正墓(台東区・谷中霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6761.html
5835 川路利瞑墓(台東区谷中・谷中霊園)


 川路利良