酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

1352 富永一朗墓(豊島区巣鴨5丁目・すがも平和霊園)

 現在、富永一朗さんの奥様が眠っておられます。


● 富永一朗

富永 一朗(とみなが いちろう、1925年4月25日 - )は、日本漫画家勲等勲四等称号岡山県高梁市(旧川上町名誉市民古舘プロジェクト構成作家として所属している冨永一郎とは別人である。


来歴・人物

京都府京都市生まれ。父は大分県出身、母は福島県南会津郡田島町(現・南会津町)静川出身[1]。父は京都の大丸デパートに勤務していた[2][1]


3歳のとき肺結核で父を失い、母の郷里の田島町で2年間を過ごした後[2]幼稚園の時から父の郷里の大分県佐伯市に育つ[1]。小学校4年頃から田河水泡の真似をして漫画を描き始める[2]。大分県立佐伯中学(現在の大分県立佐伯鶴城高等学校)に2番の成績で合格[2]。同校1年生のとき、地元で小学校教員をしていた母が恋愛事件を起こして子供を産み東京に出奔[1]。このため祖母に育てられた[1]。経済的理由から大学進学を断念したこともあるが、台湾の台南師範学校(現在の国立台南大学)が無試験[2]かつ学費無料であることを知り、同校に入学[1]。在学中は学徒動員で兵隊に取られ、二等兵として半年間高射砲の訓練を受けた[1]


敗戦後、教員免状を得て台南師範学校を卒業。教員として台南郊外の学校に3ヶ月勤務したが、1945年12月に中国軍の接収で教職を追われ、台湾で半年間のルンペン生活を送り、羊羹屋の下働きを経て1946年3月に引き上げ帰国[1]。佐伯市の実家に戻り、1946年5月頃から親戚のタドン工場でタドンの製造販売を行うが、売り物のタドンを無料配布したために2年ほどで解雇される[2]


後に公立小学校教師(=地方公務員)となり、佐伯市立鶴岡小学校で理科と図画の教師となったが、2年ほどで人員整理に遭い、佐伯市立佐伯小学校に転じて図画を教えるようになった[1]


1951年4月に教職を辞して上京し、母が洋裁の仕事をしていた代田橋の母子寮に潜り込み、帝国興信所の臨時雇いとして会社年鑑の編纂をしながら『サンデー毎日』に漫画を投稿[2]。当時、新富町の帝国興信所の向かいに新太陽社(旧・モダン日本社)があったため『モダン日本』編集部に作品を持ち込んだところ、編集者時代の吉行淳之介から才能を認められ、後に吉行が移った三世社の『講談讀切倶楽部』に作品を多数掲載された[2]


1953年頃から「赤本」と呼ばれた子供向け漫画単行本や貸本漫画を描くようになる。このころの作品に『少年姿三四郎』(きんらん社、1954年~1955年)、『夕月の母』(きんらん社、1956年)、『ルリ子の歌』(きんらん社、1956年)などがあり、これら子供向けの作品と併行して大人向けの漫画も描き続けた。1955年に母方の従姉と結婚し、世田谷区赤堤に新居を持つ。

1958年、新聞記者の紹介で近所の杉浦幸雄を訪問し、才能を認められ、『漫画サンデー』に紹介されて下積み生活から脱出[1]。35歳の時に描き始めた「チンコロ姐ちゃん」が代表作となったが、女性の裸など下ネタを堂々と扱う作風が一部で嫌悪され、新聞紙上で「日本マンガの堕落」(伊藤逸平)と批判されたこともある[2]


また1976年より1994年まで放送された長寿番組、『お笑いマンガ道場』に出演。番組中では共演者の鈴木義司に「オバケナマコ」「デブの恵まれない人」「サンショウウオ」「タラバカガニ」などとこき下ろされる一方、鈴木を「土管に住んでいる貧乏人」「ケムシ・ミノムシ」「アホウドリ」(実在のそれではない。首だけ鈴木の架空の鳥)などとこき下ろし、そのやりとりで人気を博した。[3]同番組のエンディングでほかの出演者と一緒に手を振ったときに、富永だけはいつも手を斜め前に(ナチス式敬礼の様に)上げただけで、掌を振る仕草は見られなかった。[4]


1992年紫綬褒章1998年に勲四等旭日小綬章を受章。


恰幅いい体型がトレードマークだったが、還暦を超えて糖尿病と診断され、一転生活を改めた。「健康じいさん」を自称し、模範患者として医療関係のシンポジウムや講演を通じて啓発活動を行い、闘病記も著した。近時は各種マンガ・絵画コンテストの審査員などを務めている。


歌をうたうのが大好きで、「一日うちにいるとまず30曲は歌います」という[5]


生前寿陵墓を功徳院 すがも平和霊苑内に建立している。自らのキャラクターであるチンコロ姐ちゃんが花を手向けている絵が彫刻されている。


詳しい事は『富永一朗ウィキペディア』を御覧下さいませ。 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E6%B0%B8%E4%B8%80%E6%9C%97

(wikiより)


 富永一朗










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