酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

1350 大久保利通墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

大久保 利通(おおくぼ としみち、文政13年8月10日1830年9月26日) - 明治11年(1878年5月14日)は、日本武士薩摩藩士)、政治家位階勲等従一位勲一等


明治維新元勲であり、西郷隆盛木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称される。また維新の十傑の1人でもある。


生涯
生い立ち
文政13年8月10日1830年9月26日)、薩摩国鹿児島城下高麗町(現・鹿児島県鹿児島市高麗町)に、琉球館附役の薩摩藩士大久保利世皆吉鳳徳の次女・福の長男として生まれる。幼名は正袈裟(しょうけさ)。大久保家の家格は御小姓与と呼ばれる身分で下級藩士であった。幼少期に加治屋町(下加治屋町方限)に移住し、下加治屋町の郷中藩校造士館で、西郷隆盛税所篤吉井友実海江田信義らと共に学問を学び親友・同志となった。武術は胃が弱かったため得意ではなかったが、討論や読書などの学問は郷中のなかで抜きん出ていたという[1]


天保15年(1844年)、元服し、通称を正助(しょうすけ)、は利済と名乗るが、後に改名する。


幕末
弘化3年(1846年)より、藩の記録所書役助として出仕する。嘉永3年(1850年)のお由羅騒動では父・利世とともに連座して罷免され謹慎処分となる。以後、大久保家は貧しい生活を強いられ、この時の借金依頼の手紙や証文が現在残る大久保の文書で最も古いものとされている。島津斉彬が藩主となると謹慎を解かれ、嘉永6年(1853年)5月に記録所に復職し、御蔵役となる。


安政4年(1857年10月1日、西郷とともに徒目付となる。精忠組の領袖として活動し、安政5年の斉彬の死後は、失脚した西郷に代わり新藩主・島津茂久の実父・忠教(後の久光)に税所篤の助力で接近する。篤の兄で吉祥院住職乗願が忠教の囲碁相手であったことから、乗願経由で手紙を渡したのが始まりといわれる。


万延元年(1860年3月11日、重富邸にて忠教と初めて面会し、3月、勘定方小頭格となる。文久元年(1861年10月23日、御小納戸役に抜擢され藩政に参与(去る10月7日には堀仲左衛門も御小納戸役に抜擢)、家格も一代新番となる[注 1]


文久元年12月15日1862年1月14日)から同2年(1862年)1月中旬までの間に久光から一蔵(いちぞう)の名を賜り通称を改める。


討幕・王政復古
文久2年(1862年)に久光を擁立して京都の政局に関わり、公家の岩倉具視らとともに公武合体路線を指向して、一橋慶喜将軍後見職、福井藩主・松平慶永政事総裁職就任などを進めた。同年5月20日、御小納戸頭取に昇進となる。この昇進により、小松清廉中山中左衛門と並んで久光側近となる。文久3年(1863年2月10日には、御側役(御小納戸頭取兼務)に昇進する[注 2]慶応元年(1865年)1月下旬~5月の間に利通と改諱する[注 3]
慶応2年(1866年)、第二次長州征討に反対し、薩摩藩の出兵拒否を行っている。慶応3年(1867年)、雄藩会議の開催を小松や西郷と計画し、四侯会議を開催させる。しかし四侯会議は慶喜によって頓挫させられたため、今までの公武合体路線を改めて武力倒幕路線を指向することとなる。


小松、西郷とともに公議政体派である土佐藩後藤象二郎寺村道成真辺正心(栄三郎)、福岡孝弟、浪人の坂本龍馬中岡慎太郎との間で将軍職の廃止、新政府の樹立等に関する薩土盟約を三本木の料亭にて結ぶも、思惑の違いから短期間で破棄。


武力による新政府樹立を目指す大久保・西郷・小松は8月14日に長州藩の柏村数馬に武力政変計画を打ち明け、それを機に9月8日に京都において薩摩藩の大久保・西郷と長州藩の広沢真臣品川弥二郎広島藩辻維岳が会し出兵協定である三藩盟約を結んだ。なお、この三藩盟約書草案は大久保の自筆によって書かれたもので、現在も残っている。


10月14日、正親町三条実愛から倒幕の密勅の詔書を引き出した(ただしこの密勅には偽造説もある)大久保は、小松・西郷らと詔書の請書に署名し、倒幕実行の直前まで持ち込むことに成功した。しかし、翌日に土佐藩の建白を受けていた将軍・徳川慶喜が大政奉還を果たしたため、岩倉ら倒幕派公家とともに、王政復古クーデターを計画して実行する。王政復古の後、参与に任命され、小御所会議にて慶喜の辞官納地を主張した。


詳しい事は『大久保利通ウィキペディア』を御覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%88%A9%E9%80%9A
(wikiより)


関連情報
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305 大久保利通暗殺刑死者(台東区・谷中霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/425.html
411 福地源一郎(桜痴)墓(台東区・谷中霊園)


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1511 川路利良墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/2124.html
1941 河野敏鎌墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/2796.html
2525 品川弥二郎像(千代田区九段南2-2-18・九段坂公園内)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/2811.html
2542 贈右大臣大久保公哀悼碑(千代田区紀尾井町2・清水谷公園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3567.html
3314 大久保利通邸跡(上京区河原町通今出川下る西入る)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/4005.html
3697 フルベッキ墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/4014.html 

3706 大久保利武墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

3707 大久保利和墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6459.html
5612 楠本正隆墓(台東区・谷中霊園)


 大久保利通


⇧⇩ 馭者 ( ぎょしゃ )、中村太郎墓。


⇧⇩ 巻き沿いになった馬の御墓です。


⇧⇩ 夫人の満寿子さんの御墓です。