酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

1225 成瀬仁藏墓(豊島区南池袋4丁目・雑司が谷霊園)

日本女子大学創立者
  成瀬仁藏略伝


安政五年 ( 1858 ) 六月二十三日、長州藩士・成瀬小左衛門の長男として生まれ、明治維新前後の日本の激動期に幼少時代を過ごした。


明治九年、山口県教員養成所を卒業、小学校教育に従事したが、たまたま同郷の先輩・澤山保羅によってキリスト教にふれ、深い感化を受け、職を辞して出郷、大阪難波協会において洗礼を受けた。


明治十一年、梅花女学校を創立、また大和郡山教会のの牧師となり、新潟教会に転じ更に新潟女学校を創立した。


明治二十三年、米国に留学、四年の間主として女子教育について研究、帰朝後は女子高等教育の急務を説き、助成の人間的価値と尊厳をとなえ、画期的な構想をもって女子大学設立を企図、東奔西走、遂に明治三十四年( 1901 )、東京目白台に、史学として最初の女子高等教育機関である日本女子大学校を設立した。


爾来二十年、校長として一意女子教育の発展と大学教育改善に尽くした。

大正八年 ( 1919 ) 三月四日 没 享年六十歳
(案内板より)


● 成瀬仁藏

成瀬 仁蔵(なるせ じんぞう、1858年8月2日安政5年6月23日) - 1919年大正8年)3月4日)は、明治から大正のキリスト教牧師プロテスタント)であり、日本における女子高等教育の開拓者の1人であり、日本女子大学(日本女子大学校)の創設者として知られる。


生涯

幼少期

周防国吉敷郡吉敷村(現山口県山口市吉敷赤田大形)に生まれる。成瀬家はもとは河崎姓で、仁蔵の父・小左衛門の代に成瀬姓を名乗る。小左衛門は長州藩毛利家の一門・吉敷毛利家に仕える下級武士。仁蔵は長男。仁蔵の母・歌子は隣村の大歳村出身で、藩士である秦家の娘。


仁蔵は幼少時は藩校憲章館に学び、維新後の1874年(明治7年)には調剤師として医家に住み込む。この年には父の小左衛門が死去し、山口の教員養成所の2期生となる。1876年(明治9年)に卒業し、小学校教員となる。


大阪時代

翌年にはアメリカに留学し、帰国後牧師になった同郷の沢山保羅の感化を受けて山口を離れ、1878年(明治11年)に大阪浪花教会で入信する。組合教会の運動で同年に設立された梅花女学校で主任教師を務め、翌1879年(明治12年)には浪花教会に属し、女学校生徒でもあった旧福井藩士の娘と結婚。私財を投じて学校経営の維持を図るなど教職には熱心であったが、伝道活動への意思が強く、1882年(明治15年)に卒業生を送ると教職を辞し、牧師としての活動をはじめる。沢山保羅の浪花教会を拠点に、翌1883年(明治16年)には奈良県生駒郡郡山町(現大和郡山市)の出張伝道所へ移る。1884年(明治17年)には郡山教会の独立を許されてその初代牧師となり、布教活動をおこなう一方で女子教育を研究する。


新潟時代

このころ、キリスト教受容の壁が厚かった新潟ではT・P・パーム押川方義らが教会を形成した。1883年にパームが帰国すると、O・ギューリック夫妻とR・H・デイヴィス夫妻らアメリカン・ボードのメンバーが伝道を引き継いだが、伝道活動が困難をきわめており、成瀬は組合から新潟での伝道を依頼される。成瀬はこれを拒むが、病床の沢山から赴任を懇願されると新潟へ移り、1886年(明治19年)には新潟第一基督教会(現・日本基督教団新潟教会)を設立。女子の就学状況が不振であった新潟で女学校の設立案が出されると成瀬はこれに参加し、翌1887年(明治20年)に私立新潟英学校を基礎に設立された新潟女学校の校長となる。同じく英学塾を基礎に設立された男子中等教育機関である北越学館にも関わり、教師として招かれた内村鑑三が生徒の支持を得て分離する動きを見せると、成瀬らは内村に反論し、解任を求めた。内村が去った後には旧知の松村介石麻生正蔵らが招かれた。



米国留学

1890年(明治23年)にはアメリカへ渡る。アンドーバー神学校クラーク大学教育学や社会学、キリスト教などを学び、ユニテリアン的な思想を身に付け、各種社会施設も視察して女子教育研究を行い、1894年(明治27年)に帰国。


東京時代

梅花女学校校長を務め、女子高等教育機関の設立に着手。大阪市東区清水谷東之町(現天王寺区清水谷町[1])で建設を進めたが、その後、広岡浅子の働きかけで三井財閥から東京・目白の地(現在地)を寄贈され、1901年(明治34年)、日本女子大学校を創設した(設立発起人、創立委員に西園寺公望)。


1912年(明治45年)6月、渋沢栄一森村市衛門左衛門姉崎正治らと共に帰一協会を設立する。これは、諸宗教・道徳などが、同一の目的に向かって相互理解と協力を推進することを期した会である。会員には、江原素六島田三郎新渡戸稲造石橋智信今岡信一良高木八尺M・C・ハリスD・C・グリーンC・マコウリー、W・アキスリングなどの宣教師たちも参加した[2]


晩年にはキリスト教信仰を捨てて、混交宗教を奉じた[3]

1919年、肝臓癌のため死去[4]


死後

生家跡は1934年昭和9年)に山口在住の卒業生有志によって、成瀬公園として整備された。公園内に設置された記念碑は毛利本家第29代当主の毛利元昭貴族院議員)の揮毫によるものである[5]

(wikiより)


関連情報

http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1760.html
1615 島田三郎墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/2828.html

2549 渋沢栄一像(千代田区大手町2-7-2・常盤橋公園内)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/2841.html

2561 渋沢栄一墓(台東区谷中7-5-24・谷中霊園)


 成瀬仁藏










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