酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


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1224 東郷青児墓(豊島区南池袋4丁目・雑司が谷霊園)

東郷 青児(とうごう せいじ、1897年明治30年)4月28日 - 1978年昭和53年)4月25日)は日本洋画家。本名は東郷 鉄春。夢見るような甘い女性像が人気を博し、本や雑誌、包装紙などに多数使われ、昭和の美人画家として戦後一世を風靡した。派手なパフォーマンスで二科展の宣伝に尽力し、「二科会のドン」と呼ばれた[1]


独特のデフォルメを施され、柔らかな曲線と色調で描かれた女性像などが有名だが、通俗的過ぎるとの見方もある。後期には版画彫刻も手掛けた。雑貨のデザインや本の装釘も数多い。


なお、彼の画風は弟子にあたる安食一雄に受け継がれている。 ダンディで社交的であったことから女性スキャンダルも少なくなく、愛人のひとり、作家の宇野千代の『色ざんげ』は、東郷をモデルにしている。


年譜
・1897年(明治30年) - 鹿児島市に生まれる。幼少時に一家は東京に転居。余丁町小学校では林武と同級。


1914年大正3年) - 青山学院中等部を卒業。青児の名前の由来はここからきていると言われている[2]。このころ日本橋呉服町竹久夢二が開いた「港屋絵草紙店」に出入りし、下絵描きなどを手伝う[3]


1915年(大正4年) - 山田耕筰の東京フィルハーモニー赤坂研究所の一室で制作。日比谷美術館で初個展[3]、この頃有島生馬を知り、以後師事。


1916年(大正5年) - 第3回二科展に初出品した『パラソルさせる女』により二科賞を受賞[3]


1920年(大正9年) - 永野明代(はるよ)と結婚


1921年(大正10年)から1928年(昭和3年)までフランスに留学。リヨン美術学校に学ぶ。この頃の作品には、ピカソらの影響が見られる。長男の志馬誕生。


・1928年(昭和3年) - 第15回二科展に留学中に描いた作品23点を出品、第1回昭和洋画奨励賞を受賞[3]


・1929年(昭和4年) - 既婚のまま2月に中村修子と結婚披露宴を挙げ[4]、3月に愛人の西崎盈子(みつこ)とメス頸動脈を切り、ガス自殺をはかったが、救出される[5]宇野千代同棲を始める(宇野の『色ざんげ』は東郷をモデルにした主人公が自らの情死未遂事件を語るというもので、のちに東郷は「この作品は最後の一行まで僕の話したことだ」と語っている[6])。


1930年(昭和5年) - ジャン・コクトーの『怖るべき子供たち』を翻訳、白水社より刊行。


1931年(昭和6年) - 二科会入会[3]


1933年(昭和8年) - 宇野千代と別れ、妻の明代とも離婚。情死未遂事件の相手、みつ子と翌年結婚。


1938年(昭和13年) - 二科会に「九室会」が結成され、藤田嗣治と共に顧問になる。


1940年(昭和15年) - みつ子との間に長女、東郷たまみ(のちに水谷八重子朝丘雪路とトリオを組んで歌手デビューし、その後画家になり[7]、二科会会長も務める)。


1957年(昭和32年) - 岡本太郎と共に日活映画『誘惑』に特別出演(西郷赤児役)。日本芸術院賞受賞。


1960年(昭和35年) - 日本芸術院会員[3]


1961年(昭和36年) - 二科会会長に就任。


1969年(昭和44年) - フランス政府より芸術文化勲章(オフィシエ)を授与される[3]


1976年(昭和51年) - 勲二等旭日重光章授与[3]。東京・西新宿に東郷青児美術館(現在の東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館)が開設[3]


・1978年(昭和53年) - 4月25日、第62回二科展(熊本県立美術館)出席のため訪れていた熊本市にて、急性心不全のため死去。没後、文化功労者勲二等旭日重光章、正四位追贈。


1983年(昭和58年) - 娘・たまみが艶福家であった父の性愛日記を公開[8]。同年、読売新聞の東郷番記者だった田中穣も伝記を出版し、夢二の妻たまきとの関係や二科会での帝王ぶりなどに触れた。


詳しい事は『東郷青児ウィキペディア』を御覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%83%B7%E9%9D%92%E5%85%90
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/4912.html

4460 宇野千代墓(山口県岩国市)


 東郷青児