酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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4318 徳富猪一郎(蘇峰)墓(京都府左京区鹿ケ谷若王子山町・同志社墓地)

徳富 蘇峰(とくとみ そほう、1863年3月14日(文久3年1月25日) - 1957年(昭和32年)11月2日)は、明治から昭和にかけての日本のジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家。『國民新聞』を主宰し、大著『近世日本国民史』を著したことで知られる。


蘇峰は号で、本名は猪一郎(いいちろう)。字は正敬(しょうけい)。筆名は菅原 正敬(すがわら しょうけい)、大江 逸(おおえ いつ、逸郎とも)。雅号に山王草堂主人、頑蘇老人、蘇峰学人、銑研、桐庭、氷川子、青山仙客、伊豆山人など。生前自ら定めた戒名は百敗院泡沫頑蘇居士(ひゃぱいいんほうまつがんそこじ)。


小説家の徳冨蘆花は弟。


経歴
生い立ちと青年時代
1863年3月14日(文久3年1月25日)、肥後国上益城郡杉堂村(現熊本県上益城郡益城町上陳)の母の実家(矢嶋家)にて、熊本藩の一領一疋の郷士・徳富一敬の第五子・長男として生れた[1][2][3]。徳富家は代々葦北郡水俣で惣庄屋と代官を兼ねる家柄であり、幼少の蘇峰も水俣で育った。父の一敬は「淇水」と号し、「維新の十傑」[注釈 1] のひとり横井小楠に師事した人物で、一敬・小楠の妻同士は姉妹関係にあった。一敬は、肥後実学党の指導者として藩政改革ついで初期県政にたずさわり、幕末から明治初期にかけて肥後有数の開明的思想家として活躍した[1]。[4]。


蘇峰は、8歳まで水俣(浜村、通称居倉)[5]に住んでおり、1870年(明治3年)の暮れ、8歳の頃に熊本東郊の大江村に引き移った[6]。 1871年(明治4年)から兼坂諄次郎に学んだ。読書の力は暫時ついてきて、『四書』『五経』『左伝』『史記』『歴史網鑑』『国史略』『日本外史』『八家文』『通鑑網目』等も読み、兼坂から習うべきもの少なくなった。1872年(明治5年)には熊本洋学校[7]に入学したが、年少(10か11歳)のため退学させられ、このことはあまり恥辱でもなかったが、大変不愉快な思いを憶えたという[8]。その後1875年(明治8年)に再入学。この間、肥後実学党系の漢学塾に学んでいる。熊本洋学校では漢訳の『新約・旧約聖書』などにふれて西洋の学問やキリスト教に興味を寄せ、1876年(明治9年)、横井時雄、金森通倫、浮田和民らとともに熊本バンド(花岡山の盟約)の結成に参画、これを機に漢学・儒学から距離をおくようになった[2][9]。


熊本洋学校閉鎖後の1876年(明治9年)8月に上京し、官立の東京英語学校に入学するも10月末に退学、京都の同志社英学校に転入学した。同年12月に創設者の新島襄により金森通倫らとともに洗礼を受け[2]、西京第二公会に入会、洗礼名は掃留(ソウル)であった[1]。若き蘇峰は、言論で身を立てようと決心するとともに、地上に「神の王国」を建設することをめざした[1]。


1880年(明治13年)、学生騒動に巻き込まれて同志社英学校を卒業目前に中退した[注釈 2]。 蘇峰は、こののち東京で新聞記者を志願したが、志かなわず翌1881年(明治14年)、帰郷して自由党系の民権結社相愛社に加入し、自由民権運動に参加した。このとき蘇峰は相愛社機関紙『東肥新報』の編集を担当、執筆も寄稿してナショナリズムに裏打ちされた自由民権を主張している[2]。


1882年(明治15年)3月、元田永孚の斡旋で入手した大江村の自宅内に、父・一敬とともに私塾「大江義塾」を創設。1886年(明治19年)の閉塾まで英学、歴史、政治学、経済学などの講義を通じて青年の啓蒙に努めた[2]。その門下には宮崎滔天や人見一太郎らがいる[注釈 3]。


詳しい事は、『徳富蘇峰ウィキペディア』を御覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%AF%8C%E8%98%87%E5%B3%B0
(wikiより)


関連情報
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271 講談社発祥の地(文京区・千駄木)

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313 新島襄先生終焉之地碑(神奈川県中郡大磯町大磯)

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1683 山路愛山墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


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1876 河合栄治郎墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

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3449 徳富蘇峰碑(広島県尾道市・千光寺公園)


 徳富猪一郎 ( 蘇峰 )











4317 山本覚馬墓(京都府左京区鹿ケ谷若王子山町・同志社墓地)

山本 覚馬(山本 覺馬、やまもと かくま、文政11年1月11日(1828年2月25日) - 明治25年(1892年)12月28日)は、幕末の会津藩士、砲術家、明治時代の地方官吏、政治家。京都府顧問、府議会議員(初代議長)として初期の京都府政を指導した。また、同志社英学校(現同志社大学)の創立者・新島襄の協力者として、現在の同志社大学今出川校地の敷地を譲った人物としても知られている。号は相応斎[1]。


生涯
武人の時代
会津藩士で砲術指南役の山本権八の長男として[1]、鶴ヶ城近くの武家屋敷に生まれる。山本家の遠祖は甲州流軍学の祖とされる山本勘助で、代々兵学をもって藩に仕えた。母は佐久[1]。幼名を義衛と称し、諱を良晴といった[1]。


4歳で唐詩選の五言絶句を暗唱、藩校・日新館に学んで頭角を現す。22歳で江戸に出て武田斐三郎、勝海舟らと佐久間象山の塾に入る。弓馬槍刀の師伝を得、23歳頃には藩主・松平容敬より賞を受けた。25歳で再び江戸に出て、大木衷城に蘭書を学んだほか、江川太郎左衛門に師事して洋式砲術の研究を深めた[2]。28歳でいったん会津に戻り日新館教授となり、蘭学所を開設して教授になるが[2]、守旧派批判により1年間の禁足処分になる。しかし初志を貫き、軍制改革を訴えて、軍事取調役兼大砲頭取に抜擢される[1]。文久2年(1862年)、京都守護職に就任した藩主・松平容保に従い京に上り、黒谷本陣で西洋式軍隊の調練に当たるとともに、洋学所を主宰し、在京の諸藩士に洋学の講義を行った[1]。


元治元年(1864年)、砲兵隊を率いて参戦した禁門の変において勲功を挙げ、公用人に任ぜられる。これにより覚馬は、幕府や諸藩の名士等と交わる機会が増え、活動範囲を広げるが、不幸にも眼病を患い、ほとんど失明同然の状態になる。失明については、禁門の変での負傷、また持病の白内障の悪化等が原因とされている。失明という障害を負いながらも、暗殺された象山の遺児の世話を勝から頼まれて引き受けたほか、西周を紹介され、西洋事情の見聞を広めたのもこの頃である[1]。のちに覚馬は西の主著『百一新論』を出版した。


慶応2年(1866年)12月頃、会津藩士の中沢帯刀とともに長崎へ行き、ドイツの商人カール・レーマンと鉄砲の購入交渉を行う[3]。そして翌慶応3年(1867年)3月には、紀州藩のためにシュンドナールドゲベール銃を3,000挺、4月には会津藩・桑名藩のためにシュンドナールドゲベール銃1,300挺を購入するという約定を取り交わした[注 1]。 さらに同じ頃、兵庫でレーマンと会津藩家老・田中土佐との会見を斡旋した[5]。 この際レーマンの援助で、兵庫に造船所と武器工場を建設する計画も持ち上がったという[5]。また、長崎滞在中、覚馬は西洋式の近代病院「精得館」で、オランダ人医師アントニウス・ボードウィンから眼の診察を受けている[6]。一方で、赤松小三郎を介して、小松清廉、西郷隆盛ら薩摩藩と幕府の協調も模索していたが、赤松は暗殺されてしまった[7]。


慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦い(この戦いで弟の三郎が戦死)に際しては京に残り、薩摩藩に捕われて同藩邸に収容されたが[2]、同藩首脳部はその人物の優秀さを知っており、決して粗末に扱わなかった。この幽閉中に建白書『管見』を口述筆記し薩摩藩主・島津忠義に上程[8]、これを読んだ小松、西郷らはますます敬服、一層待遇を良くしたという。明治元年(1868年)、仙台藩邸の病院に移され[2]、ここで岩倉具視の訪問を受け、翌年釈放された[2]。


治政の時代
自由の身となった覚馬は明治3年(1870年)、京都府大参事・河田佐久馬の推挽により京都府庁に出仕し、権大参事として府政の実権を握っていた槇村正直(のち京都府令・知事)の顧問として府治を指導する[2]。槇村の下で、小中学校・女学校・病院・医学校などの設立に力を尽くした他、大阪と北陸を結ぶ京都鉄道の敷設願書を当局に提出するなど、開明的諸政策を推進、有能な人材に支えられ、京都の近代化に大きく寄与した[2][8]。また家では講筵を開いて政治学・経済学を講義した[注 2]。 明治5年(1872年)、日本で最初の「内国勧業博覧会」を開催、これも日本で最初の英文案内記を著す。また、この頃に脊髄を損傷し、体の自由も利かなくなる[8]。


信仰の時代
明治8年(1875年)春、当時大阪で伝道中のアメリカの会衆派の宣教団体アメリカン・ボードの宣教医M・L・ゴルドンから贈られた『天道溯原』を読んで大いに共鳴[8]、キリスト教こそが真に日本人の心を磨き、進歩を促進する力となり得ると感じた。その頃、新島襄(のちに覚馬の妹・八重と結婚する)と知り合い、彼の学校設立計画を知り、協力を約束した[8]。覚馬は維新後に購入していた旧薩摩藩邸の敷地(6,000坪)を学校用地として新島に譲渡、次いで新島との連名で「私学開業願」を文部省に出願、これが認可された[8]。この校地は、やがて設立された同志社英学校からその後身である同志社大学に継承され、現在の今出川キャンパスとなっている(なお、「同志社」は覚馬の命名といわれる)。


明治10年(1877年)、府顧問を解かれ、2年後の第1回京都府会選挙では上京区で51票を獲得して選出され、最初の府会議員の一人となり、初代議長にもなった[2]。しかし府会の議決を経ずに、地租の追徴課税を強行する府知事の槇村と対立、最終的に槇村は一旦、追徴課税を撤回したうえで、府会に追徴課税の議案を提出して可決に至ったが、覚馬は議長、議員共に辞職、槇村も程なく京都府知事を辞して元老院議官に転じた。この後、覚馬は同志社を軸に活動した。明治18年(1885年)、京都商工会議所会長に就任[2]、この年に妻の時栄とともに受洗した。明治23年(1890年)、新島が他界する。覚馬は同志社臨時総長として、同志社の発展に尽力する[8]。覚馬が臨時総長の時期に、ハリス理化学校や同志社政法学校が設置されている。明治25年(1892年)、64歳で没。従五位追贈。墓は若王子山上の同志社墓地にある[8]。


詳しい事は、『山本覚馬ウィキペディア』を御覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E8%A6%9A%E9%A6%AC
(wikiより)


関連情報
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110 新門辰五郎墓(豊島区西巣鴨4・善養寺、盛雲寺)


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 山本覚馬